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 Movie Review 2003・11月12日(WED.)

マグダレン
の祈り

『マイ・ネーム・イズ・ジョー』ことピーター・ミュラン、長編監督第二作にして、ベネチア映画祭金獅子賞受賞作。ちなみに長編第一作『オーファンズ』は 2003 年 11 月 19 日(水)・20 日(木)・21 日(金)連日 19:10 より京都みなみ会館で上映されますので、お見逃しなされませぬよう。

 閑話休題。1964 年アイルランド、マグダレン修道院に、三人娘が送り込まれてきたのであった。ババーン! 三人娘それぞれは、従兄弟に強姦されたり、未婚の母になったためだったり、孤児院で単に男の子たちとしゃべっただけだったり…という「罪」のため監禁され、虐待される過酷な日々を送るのでした。

「マグダレン」とは「マグダラのマリア」にちなむ名、性的に堕落したとされる女性の「矯正」施設の役割を持ち、「修道院」とは名ばかりの女子刑務所状態、こういう修道院はアイルランド、スコットランド各地に 19 世紀から設けられ、1996 年まで約 3 万人の女性が収容されていたというから驚き、というか、アイルランドならそんなこともあるかもしれませんね、と一人ごちたのでした。

 アイルランドを舞台にした映画といえば、『ライアンの娘』(デビッド・リーン監督)みたいな超絶名作もありつつ、『静かなる男』『ヒア・マイ・ソング』『アンジェラの灰』など、なんというか家族思い、男は男らしく、女性は気丈で、って感じでアイリッシュ万歳! また『ザ・コミットメンツ』、「アイリッシュはヨーロッパの黒人だ!」みたいな、虐げられた者特有の「もう笑うしかない」的ユーモアあふれる、…みたいなイメージがあります。

 それらのベースにあるのは、「家族でいちばん偉いのは父親」という家父長的な家族であり、我々(誰?)が「アイルランド映画」に惹かれるのは、日本ではなかなかお目にかかれなくなってきた、そういう家父長的家族の姿が見られるからでございましょうな。って適当です。

 ピーター・ミュランは、楽しく愉快なアイルランドの闇を照らし、家父長制を批判します。カトリックの教義に反した娘を、マグダレン修道院に送り込むのは、家父長なのであった。マグダレンの娘たちは厳しく監視されているとはいえ、脱走するのは刑務所より簡単、実際、3 人娘の一人マーガレットに、外部へ通じるドアが開きっ放しという、脱走のチャンスが訪れます。しかし、マーガレットは脱走しない。脱走しても、家族(家父長)が自分を受け入れてくれない限り、居場所がないことを知っているからで、マグダレンを脱走できるのは、孤児という境遇にあって、家族に頼らず生きていけるバーナデッドでなければならない、ということですな。フム。

 さすがケン・ローチ作品の主役をはったこともあるピーター・ミュラン、カソリック批判も徹底的……なんですけども、因業な修道院長や、助平神父は戯画化され過ぎ、こういうステレオタイプはケン・ローチ作品には出てこないはず、ケン・ローチなら修道院長や神父が、なぜカトリックの信義にもとる行動に出るのか、外的な動因も描くはず、そうでないと、ここで描かれる悲劇は、たまたま彼らのパーソナリティに問題があったから起こった、みたいな印象が残るわけで、カソリック批判としては不充分では?

 逆に、「助平神父、許さん!」とマーガレットが悪戯をしかけ、神父が「かいーの、かいーの」と大暴れする姿に笑いをかみ殺すマーガレットの表情が、やがて悲痛なものに変わるシーン、あるいは、娘たちがすっぽんぽんにされて「さーて、巨乳ナンバーワンは誰かなー?」とコンテストが開かれる超グロテスクなコメディシーンに、私は「この世には神も仏もありませんな」と一人ごちると同時に、妙に敬虔な気持ちに襲われたのでした。ってよくわかりません。

 クライマックス、虐げられていた娘たちがいっせいに蜂起、修道女たちをコテンパンに痛めつける…みたいな展開でしたら、最高に面白い映画になったのになあ、と思わないでもないですけど、P ・ミュランは、カソリックに謝罪と、被害者に対する補償を求めており、真面目・誠実に終わっておくのが得策でございますね。それはともかくアイルランド映画好きは必見、というか、P ・ミュラン、オーソドックスな脚本・演出で素晴らしいです。オススメ。

☆☆☆★★★(☆= 20 点・★= 5 点)

BABA Original: 2003-nov-11;

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