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 Diary 2005年6月1日(Wed.)

俳句とは?

 今日も暇だ。あんまり暇なので、テラリーなんか一日中俳句をひねつてゐた。最近のテラリーは、学校の授業中も俳句をひねつてゐるやうで、心はすつかり575である。オパールのカウンター席にもの凄く難しい顔をして座つてゐるので、卒論の構想でも練つてゐるのかと思へば、おもむろに指を折りだして首を捻つたりしてゐる。たまたま来店したアツコさんに対しても、熱心に俳句の面白さを説いたりしてゐる。それは良いのだが、アツコさんが川柳と俳句の違ひについて尋ねたのに対するテラリーの答へ、「川柳は季語がなくて滑稽味があるもの、俳句は季語があつて花鳥諷詠を詠むものです」は、一寸違ふと思ふぞ。テラリーも実はこの二つの違ひがよく分からなくて、実際に俳句をやつてゐる人に尋ねた結果得た答へらしいのだが、多分、その人はホトトギス系統の人だらう。「有季定型・花鳥諷詠」絶対! なんて言ふのは、ホトトギス系統の人たちだから。私が考へるに、俳句とはまづ「詩」である。575 といふ、とりあへずの定型の中で、日本の魂(こころ)を詠ふものである。川柳との違ひは正にこれで、「詩」であるものが俳句、「諧謔性」や「批評性」を優先させるものが川柳だと、私は考へてゐる。だから必ずしも季語はなくてもいいし、定型も破れてもいい。ただ、それが「詩」として成立してゐるか否か。これが大事なのだ。が、この事はとても難しい。受け取る側も、難しい。しかし、もともと「詩」や「芸術」などは、さういつたものなのだ。素人がおいそれと理解できるものではない。

 ホトトギスの人たちは、「俳句とは有季定型で花鳥諷詠を詠むもの」と定義した。この事により、俳句は簡単になつた。とりあへず季語を勉強すれば、俳句は分かる・詠めるものとなつた。この事により、俳句は一気に大衆化し、中から優れた俳人や俳句が多数生まれたので、もちろんその貢献度は絶大なのだけれど、一方で大衆化による俳句の堕落も招いてしまつたのも事実。誰が見たつて、現在の俳句は堕落してゐて、とても「芸術」とは言へない。暇なをばさんや老人の習ひ事、と化してゐる。それでいいぢやないか、といふ意見もあるやうだが、もしさうだとしたら、そんなものわざわざ我々がやる必要はない。

「でも、今度やる俳句の会(名称未定)では、有季定型でやるんでせう?」

 うん。季語や定型、花鳥諷詠にしても、「絶対に何が何でも必要」といふ訳ではないが、「十分に尊重」しなくてはならない。それは俳句が伝統詩だからで、そこが現代詩との違ひ。川柳や(短い)現代詩との違ひをしつかり認識すれば、いくぶん俳句は分かりやすくなるんぢやないかな。で、我々もド素人なんで、まづは有季定型でやる。テーマも花鳥諷詠、といふか、日本の魂(こころ)をうたふ。基本からやらう、といふ訳だ。

「なるほど。今度の会も、演サバの延長線上にある、といふ訳ですね」

 その通り! …つー訳で、テラリーもますます俳句に励んで下さい。その前に、お客さんを呼んできて下さい。

小川顕太郎 Original: 2005-Jun-5;