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 Diary 2002・9月21日(SAT.)

楷書は難しい

 朝起きてから店に行くまで書をやり、店から帰ってきて寝るまで、また書をやる。だいたいどのようなものを書くか、という事は頭の中で決めた。それを実際に紙に書くだけなのだが…書けない。書けるわけがない! 別に日頃から鍛錬を積んでいる訳でもないのに、いきなり書けるはずがないのだ。天才でもあるまいし。

 私は楷書の作品を書こうとしている。実際に楷書ぐらいしかまだ書をやっていないので仕方がないのだが、実は楷書の作品というのは凄く難しい。いや、他の篆書や草書でも難しいのは難しいのだが、なんというか、現代は楷書作品というのはほとんどない。それは書きようがないからなのだ。普通の人達が「楷書」と聞いて思い浮かべる、いわゆる「三折法」で書かれた「普通」の楷書は、唐代にすでに完成されている(とされる)。その完璧な姿・美しさに少しでも近づこうと練習するのが「習字」だ。

「習字」ならそれで良い。日常の用を足すには、それで充分だし、そういった美しさこそが求められている。が、作品として求められる「書」となれば、そうはいかない。完成された美しさから逃れ出た、新たな美の規範を作り出さなければならない。そこに、西川寧の静謐の中に熱を秘めたソウルフルな楷書や、手島右卿のゆらぎの中に解体されそうな楷書や、赤羽雲庭の下手くそと見まがうような楷書が生まれるのだ。

 私は赤羽雲庭の書の良さがどうにも分からなかったが、今回初めて分かったような気がした。例えば、赤羽雲庭の書いた「普通の」楷書を見ると、もうびっくりするぐらい上手い。さすが天才と言われただけの事はあるなあ、と感心する。それが、作品となれば、子供が書いたような下手(に一見思える)楷書を書く。うーん、これが「味」ってものなのかなあ…と、今までは曖昧に思っていたのだけれど、今回自分なりに「完成された楷書の美をどう乗り越えるか」という事を考え、苦闘してみると、赤羽雲庭の書の凄さがヒシヒシと迫ってきた。これは「味」なんていう、いい加減なもんじゃない。単に下手なのでもないし、単に上手いのでもない、いい加減に書いてあるのでもないし、衒っているのでもない。どこからアプローチしてもスルリと逃げるものがあって、でもそこに厳然と書があるという…。これは、凄い、かも。

 書を始めて 1 年ほど、それもほとんど片手間にしかやっていない(しかも最近は篆刻をやって、書はほとんどやっていない…)私が、そんな「完成された楷書の美」を乗り越えた作品なんか書ける訳がない。それは当たり前なのだが、だからと言って、「普通」の楷書なんて恥ずかしくて書けない。そんなものを書くくらいなら、書なんて辞めたらいい、と思う。「習字」で充分だろう。(もちろん、字の下手な私は、習字の必要性もある訳ですが)。例え碌なものが出来なくても、せめて苦闘の跡が出た楷書を書かなくてはいけない。しかし……それには時間がないんだー!! あああ、こんな日記を書いているうちに仕事の時間が…。

小川顕太郎 Original:2002-Sep-23;