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 Diary 2001・2月1日(THU.)

愛のコリーダ 2000

 みなみ会館に大島渚監督『愛のコリーダ 2000』を観に行く。

 周知のように『愛のコリーダ』は 1976 年の作品だが、カンヌ映画祭では 10 回を超える追加上映、フランスでは 17 ヶ月に及ぶロングランになったにも関わらず、日本では税関でひっかかり、フイルムカット・ボカシ、などの大幅修正を加えられた形での上映となった。

 それ以来、ビデオでも修正版でしか観られなかったのだが、その幻の傑作が、多少のボカシはまだあるものの、フイルムノーカットではじめて日本で公開されることになった。去年からずうっと待っていたのだ、私は。京都公開は 2001 年になってしまったが、まあよい。気合い十分で映画館に乗り込んだ。

 素晴らしい。もう圧倒的に素晴らしかった。全編これ性交・セックスシーンの嵐。といえば、でもポルノ映画ってそうなんじゃないの、と言われるおかたもおられましょうが、私の乏しいポルノ映画体験からいうと、そうじゃない。ポルノ映画は、確かにセックスシーンをいれまくる訳だが、あくまでもお話としての体裁を保とうとして、不要な説明的シーンがあったり、お話とセックスシーンの整合性がなかったりする。要するにムリヤリ感がある訳だが、『愛のコリーダ』にそれはない。まったく自然に、性交シーンで映画がなりたっているのだ。

 もちろんポルノ、というかピンク映画でも、この『愛のコリーダ』でも製作を担当している若松孝二や、曽根中生、田中登など、ムリヤリ感のない映画を作る人達はいるけれども、ここまでセックスシーンを中核に据えた映画はないんじゃないだろうか。いや、あんまり観ていないんで、いい加減なことを言っていますが。誰かピンク映画に詳しい人がいたら教えてほしい。

 私がこの映画を観て感じたのは、性愛は儀式性だ、ということ。様式性と言ってもよい。吉蔵と定は徹底して様式性にこだわる。芸者を呼んで結婚式の真似事をしたり、芸者の前で性交したり、首を締めあったりするのも、すべて様式性/儀式性を重んじるが故だ。だから私を感動させたのは、吉蔵の完璧な遊び人ぶりなのだ。

 この映画を純愛映画として持ち上げる向きもあるみたいだが、私に言わすとそれはちょっと違う。吉蔵は愛に殉じて死んだのではない。徹底的に遊び尽くして死んだのだ。恋とは遊びである。定という絶好のパートナーを得て、大日本帝国が戦争へと向かう時代に、遊びに遊び抜いたのだ。そもそも色恋沙汰で女に殺されるのは、遊び人の本望ではないか? 外国まで行って、殺しあいの果てに男に殺されるよりは、恋という遊びの果てに女に殺される方がいいじゃないか。

 もちろん、戦争だってもともと遊びだったのだ。それが 20 世紀、総力戦/全体戦争の時代になり、テクノロジーの進化もあいまって、戦争から遊びの要素がどんどんなくなっていく。それに対する抵抗もこめて、吉蔵は定と一緒に恋という遊びを極めていく。ほんと素晴らしい。

 〈遊び〉の映画なので、映画も様式性にこだわり、美しい。着物も、小道具も、家具調度も、部屋も、すべてが粋で美しい。まさに堪能した。

 これを超える映画がそうそうあるとは思えない。で、本年度のベスト 1 は『愛のコリーダ 2000』で決まり! ……あ、そういえば昨日は『BROTHER』がベスト 1 だと言っていたっけ。うううん、じゃあもう同列 1 位だ!

>> Movie Review『BROTHER』と『愛のコリーダ 2000』

小川顕太郎 Original:2001-Feb-2;