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Movie Review 2月9日(FRI.)

BROTHER」と
愛のコリーダ
 2000

 私がこの 2 本を並べて論じるのは、続けてこれらの作品を観た、そしてともに尋常ならざる感銘を受けた、ということがまずある。つまり単なる偶然に拠る、という側面が多大にあるのだが、それでも私はこの 2 本に共通のものをみたのだ。そしてその私を感動させた共通のものはなにかといえば、遊ぶ男の姿、なのである。

 まずは『愛のコリーダ 2000』の藤竜也=吉蔵だが、彼は典型的な遊び人として描かれている。そして彼は、人生を遊び尽くして遊びの果に死んだ、というのが私の解釈だ。決して、愛に殉じて死んだのではない。それは吉蔵と定の愛欲の様が、おそろしく遊戯性を帯びているのをみてもわかる。むろん、恋というものはもともと遊戯性を帯びたものだが、彼等のように意識的に極限までそれを押し進めるものは、そうそういない。だから彼等の恋は閉じていない。意識的に性交の場に第 3 者を引き入れようとする。つまり、二人だけの愛の世界、というものの対極にあるのだ。それは、最後に「定吉二人キリ」と書いたとしても、そうなのだ。「二人キリ」などと言うのは、恋というゲームで多用されるツールのひとつに過ぎない。

 それでも死ぬことはないじゃないか、死んでしまったら遊びにならないんじゃないの? と言われるかもしれない。しかしあの死は、例え必然であったとしても、ハプニングなのだ。吉蔵は「死にたくない」「首を絞められたくない」と一度はっきり言っている。それでも定に「絞められたいと言え!」と叫ばれれば、にっこり笑って「絞められたい」と言うのだ。何故か。それは吉蔵が一流の遊び人だったからだ。一流の遊び人、といえばなんだか変だが、要するに高い美意識を持っていたのだ。遊びにおいて、生活や生命などの俗事を気にすることは野暮である、という確固とした美意識を。だから、吉蔵は定の激化する「粋」な要求を、次々と呑んでいったのだ。同様のことは『BROTHER』にもいえる。

 典型的な遊び人である吉蔵に対して、無口で陰気にみえるヤクザの山本=ビートたけしは、その一見禁欲的な様から、まったく正反対の人間に思えるかもしれない。しかし、山本も同種の遊び人なのだ。

 遊び人の要素としてよくいわれるものに、飲む・打つ・買う、がある。このうち少なくとも映画のうえで吉蔵に欠けていたものは、打つ、だ。が、その「打つ」は、山本にある。山本は、黒人のデニーとともに、しじゅうなんらかの賭けをやっている。それは賽子のような古典的なものから、道に男が通るか女が通るか、といった下らないものまで、ありとあらゆるものだ。マフィアのボスに対する復讐まで、賭けにしようとする。そして賭けをやっている時だけ、普段は陰気な山本は、本当に楽しそうに笑うのだ。山本が生っ粋の遊び人である証拠である。

 そして遊び人のもうひとつ本質的で重要な要素は、決して目的を持たない、ということだ。遊び人は常に現在を、過程を生き、楽しみ尽くすのだ。だから吉蔵は愛に殉じた訳ではないし、山本はマフィアとの抗争に破れて死んだ訳ではない。彼等の死はあくまでハプニングなのだ。

 ではなぜ山本はマフィアとの抗争に巻き込まれたのか。それも山本の持つ美意識の故である。やくざの山本の美意識とは、やられたらやりかえす・おとしまえはきっちりつける、というものである。そしてそれは兄弟の絆のうえに築かれている。最初に山本は、自分の弟が地回りのギャングにやられているのを見て、それを助けたに過ぎない。もちろん、きっちり借りはかえした。それが相手の激怒するところとなり、仕返しにくる。それに対してこちらも応えているうちに、のっぴきならない抗争に巻き込まれることになったのだ。別に山本は、自らの組織を拡大しようという目的は持っていない。だから、白瀬たちが必死になって組織拡大に勤しむのをみて、機嫌を悪くし、怒鳴ったりするのだ。それでも、山本は抗争そのものを避けたりはしない。安全策などとろうとしない。それは美意識に反するからだ。その場その場を、自らの美意識に従って行動し、あとさきを考えないのだ。

 この現在のみを自らの美意識に従って味わい尽くす、という姿勢に、私は感銘を受けた。繰り返すが、吉蔵は至上の愛などというものを追求したが故に死んだのではない。決して先のことを考えず、現在のみを生きたが故に、流されに流されて死んだのだ。山本も、組織拡大を目指して抗争に破れたが故に死んだのではない。彼も現在のみを生き、流しに流されて死んだのである。

『愛のコリーダ』には、吉蔵が軍隊と擦れ違う名場面がある。これは、戦争に勝つ、という目的のためだけに組織・訓練された人々と、目的を持たず遊びに徹した人間との鮮やかな対比が感動をよぶ、素晴らしい場面である。時代に対する鋭い批判となっている。では『BROTHER』はどうか。

 吉蔵と山本の最大の違いは、前者が露骨に享楽的なのに対して、後者がいっけん陰鬱なところだ。陰鬱というより、とても疲れているようにみえる。私はこれは時代設定の問題だと思う。『BROTHER』の時代設定は、まさに現在である。現在の世界は、目的など持たないようにみえる。だからといって時代が享楽的かといえば、そうでもないように思える。なんにせよ、現在を生きる我々にとって、現在はどんな時代かという問いに答えるのは、至難の技だ。が、この疲れ切った遊び人である山本の姿は、ある種の解答を示していると、私には思われる。『BROTHER』は、鋭く時代と切り結んだ傑作なのだ。

 最後に。男たちが遊びの果に死んでいく傍らで、女たちは何をしているのだろうか。実はこの問いこそ、これらの映画の核心をついているような気もするのだけれど、私には分からない。ほんとうに何をしているのだろうか?

オガケン Original: 2001-Feb-09;

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