マンガは哲学する
『マンガは哲学する』永井均著(講談社)を読了。この本には「マンガによる哲学入門書」という側面と「哲学によるマンガ入門書」という側面があるそうだが、ここに紹介されているマンガをほとんど知っている私にとっては、当然「マンガによる哲学入門書」という読み方になる。しかし、それにしては入門書故か哲学的な思索が浅い、あるいは共有できない、と思え、物足りなかったというのが正直な所だ。
それでも一カ所、強く刺激された箇所があった。それは業田良家『自虐の詩』に関する文章である。私はこの『自虐の詩』を 3 回ほど通読したが、そのたびに感動・号泣した。マンガの中では『わたしは真悟』と並んで最も好きな作品である。
『自虐の詩』の最後の部分に、悲惨な人生を生きてきた主人公の幸江が、「人生に幸も不幸もない」と悟る、真に感動的な所がある。この部分を指して、永井均は、幸江は「たまたま事実として」幸福になっただけではないのか、と問うのだ。これは私には不意打ちであった。
確かに言われてみれば、幸江はいくら悲惨な境遇にいたとはいえ、イサオや熊本さんという、現実世界ではめったにお目にかかれないほど素晴らしい友人に恵まれていて、そのおかげで幸福になれたともいえる。イサオや熊本さんがいなければ、幸江は悲惨なままで、「人生に幸も不幸もない」と悟る事など出来なかったかもしれない。
そういった意味で、やはりこれは御都合主義的な作品なのだろうか。いや、待てよ、と私は考える。そもそも悟りなど「たまたま事実として」悟るものではないのか。個人の努力うんぬんでどうなるものでもない、と私には思える。そもそも悟るに足るだけの能力や資質に恵まれること自体、「たまたま事実として」得る・授かるものではないだろうか。そう考えると、永井均がここで何を言いたかったのか、分からなくなる。大切なのは、この悟りのシーンを裏付けるリアリティであると私は考える。そしてこのマンガにはそれだけのリアリティがあると私は思う。私が「傑作」と激賞するゆえんである。
夜に、帰っていったはずのババさんが、すぐに戻ってきて手招きするので、何かと思って一緒にエレベーターで下まで降りると、オパールの看板が倒され、散乱していた。二人で組み立てた所、なんとか直ったのでよかったが、困ったものだ。夜道に燦然と輝く看板なので、いつかはやられるのではないかと危惧していたが、とうとうやられてしまった。何らかの対策を考えるべきか。
小川顕太郎 Original:2000-Mar-29;