可能涼介の決意表明
可能涼介から電話。決意表明を書いたから FAX する、という。
可能が演劇界と関わりを持つようになってから、もう 10 年近くになる。最初の戯曲を書いた 10 代の頃から数えると、10 年以上の年月が過ぎている。その間に、様々な理不尽な目や納得できない事態に遭遇してきた。それらは、世慣れた人達から、「世間とはそういうもの。子供っぽい理想論をこねくりまわしていないで、もっと大人になれ」と言われかねない類のものだ。相手が約束を守らなかったり、前言を翻したり、利用されたり、等など。勿論これらの事は、社会生活を営む上で絶対にある事だし、自分もやってしまう事だろう。しかし、最悪なのはそれを「世間とはそういうもの」等と言ってうやむやにして、責任をとらない事だ。可能は、それは絶対に許せない、という。安易に大同につくのではなく、徹底的に小異に拘っていくべきだと。が、そのためには何らかの「記録」がいる。それがないと、結局うやむやにされてしまうのだ。
可能は昨年末に自らの戯曲が公演されたのだが、その上演に際しても、納得できない事が多々あったという。もちろん、自らの落ち度もあったわけで、その反省も踏まえ、二度と同じ過ちを繰り返さない/繰り返させないために、決意表明を書き、親しい友人達 10 人ほどに FAX したのだ。私は可能の意を是とし、ここにその決意表明を書き写すことにする。もし可能がこの決意表明に反することをし、且つその事態をうやむやにした場合、私は友人として可能を徹底糾弾するつもりだ。
小川顕太郎 Original:2000-Mar-29;〈可能涼介の決意表明〉
二〇〇〇年三月二十七日 月曜日
今日、高取英演出の「家畜人ヤプー」のケイコ場に、沼正三、康芳夫の代理人として、原作と上演台本との違い方がいかようなものかをチェックしに、要するに著作権管理者として、出かける。これは、昨年 12 月の「アンチェイン・マイ・ハート」が、私が自分で「好きなように直してやってかまいません」と言った結果、まったく別物となったことへの反省から、著作権と作者の〈自由〉について考え直すための契機である。12 月末に書いた「読書人」のエッセイでは、「芥氏と共作で構わない」という意味のことを書いてしまったが、今年に入って、〈法/権利〉について考え始めた結果、再演の可能性含め、「アンチェイン・マイ・ハート」(「地平線の音階」と「黒い虹/白い紙」)という作品は、消滅させることにした。芥氏が改ざんした以前の、「地平線の音階」「黒い虹/白い紙」に「水平線の標的」を加え、「アンタッチャブル・プラトー(不可触高原)」という総合タイトルをつけ、新たに生まれ変わったことにする。必ずいつかは、その形で出版したい。これが、私の倫理である。
以後、私の戯曲(頭脳演劇)の上演の機会があっても、卜書の指定とセリフに関して筆を加えることは、禁止する。少しでも変更を加えるなら、私が初めから書いたものを、会場で観客に配らねばならない。結城座にはそういっていたはずだ(文章化していないから証拠はない)。
可能涼介