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 Diary 2000・6月7日(WED.)

踊る人々

 店が終わってトモコとともに夜道を歩いて帰っていると、ビルのガラスに自らの姿を写し、ラジカセから流れる音楽に合わせてダンスを練習する若者達をみかける。冬の間はあまり見かけなかったが、最近はまたちょくちょく見かけるようになった。ダンス大会でも近いのか、単に季節が良くなったからか。

 ところで鶴見済は自著『檻のなかのダンス』で、我々が属する近代という時代を、フーコーに依拠しつつ、「ディシプリン」ではなく「ドリル」の時代と呼び、まず身体を徹底的に型にはめ管理・訓練することによって精神までも管理しようとする時代だと言っていた。

 不自然で画一的な姿勢・動きを何遍も何遍も強制・訓練する事によって、自ら進んで秩序に従う従順な身体をうみだす「ドリル」の時代。これに対して鶴見は「ダンス」をもって抵抗しよう、という。いや、すでにその抵抗は世界中のいたる所で始まっているという。いまやヨーロッパを中心に世界中にひろまりつつあるダンスブーム。レイブやナイトクラブ。多分、歴史上ここまでの数の人々が毎日踊り続けている時代は皆無だったのではないだろうか。これこそ「ドリル」の時代に対する「身体の反乱」なのだ、と。

 もちろん鶴見は「ダンス」という言葉を象徴として使っていて、「身体の反乱」を示すものなら何でも推奨している。惰眠とか長風呂とか。が、もちろん具体的な「ダンス」についても述べているのでそこを見てみる。鶴見は「ドリルの時代」にはいってから、「ダンス」まで奇形化されたという。まず踊る人と観る人の分化が行われた。そしてダンスも不自然で無茶な姿勢を訓練によってとる見世物化が進んだ。これが「モダンダンス」だ、と。だから我々は自由勝手に、身体の快楽の赴くままに身体を動かすダンスを取り戻すべきだ、と。

 いいたい事はよく分かる。正しいとも思う。しかし、ノーザンダンサーの端くれとして、これには少し留保をつけたい。鶴見に言わすと、何回転もスピンをしたり開脚して飛び跳ねたりするようなノーザンダンスは奇形化している、身体の自然な快楽に沿っていない、という事になるだろう。が、私が思うに、快楽・欲望というものは、多かれ少なかれ形作られたものなのである。自然な、素のままの快楽・欲望というものはない。無論それに近い快楽・欲望というものはあるだろう。ダンスはそのうちのひとつだと思う。そして、十分に訓練された身体で踊るダンスというのは格別なのだ。その事を説明しよう。

 ノーザンダンサー達とて、そんなに始終アクロバティックな踊りを展開している訳ではない。普通は軽くステップを踏む程度だ。が、2 時間、3 時間と踊り続け盛り上がってきたとする。徐々に身体の内にソウルが満ちてくる。ステップもだんだん激しくなる。そこに DJ がとっておきの 1 枚をかける。爆発するソウル。その時にどのようなダンスを、どのような身体の動きをすればよいのか。叫び声をあげる。ムチャクチャに手足を振り回す。飛び跳ねる。もちろんその程度の事はする。しかし、それでももどかしさは残る。身内に沸き起こるソウルに身体の動きがついていっていないような気がする。

 そこで飛び出すのがアクロバティックダンスなのである。通常では決して無理な動きを、もの凄いスピードで繰り返す。側からみれば、見世物っぽいかもしれない。しかし彼等は、いや我々はその時、純粋に自分達自身のために踊っているのだ。それぐらいしなければ、沸き起こるソウルに対応できないのだ。そして「長い夜が終わる」。ぐったりとした虚脱感。

 ノーザンソウルの聖地「ウィガンカジノ」が潰れた時、何人もの自殺者が出たというが、それもむべなるかな。ダンスをするという事は、生きることに限りなく似ているのだ。

 ここまで書いておきながら、いまさらこんな事をいうのは気がひけるのだが、最近の私はダンスの練習を全く怠っております。もう一方の身体の快楽、惰眠・風呂・ドラッグ(アルコールですよ。焼酎)にずっぷり浸っております。こんな事ではキタアキくんが帰ってきたら怒られてしまう。でも、今日も 13 時間寝ました。イエーイ。

小川顕太郎 Original:2000-Jun-8;