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 Diary 2000・6月5日(MON.)

ヤンキーとは何か

 私がオイシンに「お前はヤンキーだから」と言えば、オイシンは不服そうに「えーそうですかー、でも僕は別にアロハを着たりむちゃ太いボンタンをはいたりと変わった格好はしていなかったですよー。普通の格好です。それに学校で暴れたりシンナー吸ったりバイクで暴走したりもしませんでしたよー。」と言う。何も分かっていない。そこで説明する。

 この日本という国には、大きく分けて 2 種類の人間がいる。ヤンキー文化圏に住む人間と、そうでない人間である。そしてヤンキー文化圏に住む人間が圧倒的なマジョリティである。オイシンがイメージする「ヤンキー」とは、そのヤンキー文化圏の中のある突出した一部の人間の事だろう。しかしオイシンのいったような意味合いで「ヤンキー」という言葉を使っている人も多いので、必ずしもオイシンが間違っているという訳ではない。問題なのはオイシンが自分がヤンキー文化圏に属する人間だという自覚が足りないこと、つまりは非ヤンキー文化圏に属する人間に対する意識が足りないことだ。

 ヤンキー文化圏とは、別に地域的なものではない。それは人間の種類みたいなものだ。ヤンキー文化圏とは、日本的なムラ共同体社会のことである。そしてそれがいわゆる「世間」を構成すると私は思う。柄谷行人が近著『倫理 21 』で、この日本的なムラ共同体社会について述べているのでそこから引いてみる。まず彼等の中心は「世間」であって「自己」がないので、「友情」が存在しない。

「彼らは孤立を恐れて仲むつまじく付き合いますが、ほんのうわべだけです。根本的にはエゴイスティックであるのに、『自己(エゴ)』がない。」
「他人と親密に付き合うが「友情」のような深い関係は持たない。彼らは天下国家に何が起ころうと、関心がないし、なにもしない。自分たちの年貢さえひどくなければ、自分の土地さえ守られれば、何がおころうと知ったことではない。ただ『世間』をおそれ、基準からずれないようにしている。」

 ううん、まるでオイシンの事をそのまま描写したとしか思えない。私のようなヤンキー文化圏に属していない人間は、小さな頃から不断にヤンキー=ムラ共同体=世間と闘争していた。オイシンも道場に入ったからには、まず自らのヤンキー性と闘うべきだろう。

 ちなみにクラタニくんはバリバリの元ヤンキーである。そしていかに自分がヤンキーであったか、他校と喧嘩したりバイクでぶっとばしたり***したり××したりといった事を、面白おかしくきかせてくれる。

 それを聴いて笑いながらもオイシンは「自分はそんな事なかった」「そんな事しなかった」としつこいぐらいに言う。これはきっと、自分はヤンキーではない! とアピールしたいのだろうが、かえって逆効果だ。突出したヤンキーは、突出している故にヤンキー性を越えられる可能性がある。クラタニくんのように。が、中途半端なヤンキーであるオイシンは、いつまでたってもヤンキー文化圏の住人だ。そして周りとずれないように常に「顔色をうかがっている」。ううむ、困ったものです。

小川顕太郎 Original:2000-Jun-7;