ジョージ・オーウェル『一九八四年』を読み、論評せよ!
この課の目標
- 80 年代のマスト・アイテムを知る。
- 政治や社会の問題に目を向けよう。
以下、オパール道場弟子オイシンの『一九八四年』に対する「論評」。
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遅くなりましてすいません、1984 仕上がりました。なんだかやっぱりうまくいきません、とくにオチのあたりが。はぁ。
「一九八四年」
「これはエンターテイメント小説だよ」と聞かされて読み始めた『1984 年』。しかしその実体はこれがエンターテイメントなのか? と疑問に思ってしまう。エンターテイメントとはあくまでぼくのイメージでは勧善懲悪で脈略もなく美女が出てきてウハウハな思いをし、たまに親友に裏切られてみたりしながらも最後には悪玉のボスを倒して美女とともにどこぞへと去っていくという図式が成立していたのだけどどうも趣が違う。これはエンターテイメントではないのではないか? それとも僕のエンターテイメント観が間違っていたのだろうか。
とにかく主人公のウィンストンは死んでしまうのである、志し半ばにして力つきるのではない、陵辱されたあげく心の真まで侵食されてしまう。「心の中までは入ってくる事ができない」と言っていたが、彼らは心の中まで進入しきた。すっかり抜け殻となってしまったウィンストンは死ぬ瞬間、あれだけ嫌悪していたビッグブラザーを愛してしまっているというなんともいたたまれない結末が待っている。
しかしこういう結末にしなければならなかった理由があるはずだ、それについて考えてみる。
もしこれがウィンストンが勝利し、世の中が人間性を取り戻すというお話であった場合やはり読む側はエンターテイメント(娯楽)作品ととらえて意識に残らない物語になってしまったと思う。
現実につなげるかたちで物語を構築した時に、主人公が世界を救ってしまう話ではいけないのだろう。少なくとも僕はそういう話を読んだらいざとなったら誰かが助けてくれるだろうと気楽に構えてしまい、大して考えることもなく忘れていってしまう。ところがウィンストンは死んでしまった、つまりもう僕を助けてくれる人はいなくなっちゃったのだ。これは困った、この状況で僕が戦う気にはとてもならない。
それなら 1984 年の様な世の中になるのを未然に防止するしかないという発想に自然と行き着く。
ああ、なるほどそういうことか。以前剣之信師匠がパゾリーニの『ソドムの市』について書いおられたが、そこでは資本主義の汚さについてこれでもかと言わんばかりにエロ・グロの表現で描かれていたのだけど、それは以前ぬるい表現では意図が伝わらなかったので、過激な表現を用いる事で今生きている社会が欺瞞に満ちたものであるのを描いているという事を言っていた。映画は見ていないので確信は持てないが、そういう意見は理解できる。
『1984 年』はエロ・グロではないが拷問シーンなどはかなりきつい描写がされていた、同じような方法をとっているのだろうと思う。
そうやってオーウェルの意図についてかんがえていたのだけど、色々と考えているうちになんだかえらいことに気が付いた。油断してたらこうなってしまうのではないかという悠長な話じゃなくって、程度は違えど今の僕自身がすでに 1984 年の世界の人間になってしまっているのではないか。
物語中で舞台となるオセアニアという国では統治する時に「二重思考」というマインドコントロールのような手法を用いている。どういうものかと言うと、「一つの精神が同時に相矛盾する二つの心情を持ち、その両方共を受け入れられる能力」ということで、その条件の一つに、
不都合になった事実は何でも忘れ去る事、次いで再びそれが必要となれば、必要な間だけ忘却を彼方から呼び戻す事
というのがある。やっぱり! 僕も二重思考の条件を満たしてるやん! 不都合なことを忘れるなんて十八番と言っても過言ではないでしょう。ずっとウィンストンの気持ちになって読んでいたのですが、僕はアホな庶民だったということでした!
僕が 90 年代大量発生型馬鹿だとよく言われていることから考えると、世の中そんなやつばっかりということでしょう。とにかく政治への関心はほとんどないのはオセアニアの人々と全く一緒、1984 年の世界は極度の政治への無関心さゆえに成立したものだと思う。そういえば物語中では架空の戦争で国民の目を政治からそれさせていたのも、現代では腐るほどある娯楽が同様の効果を果たしているような気もするな。アホな国民となんでも管理したがる政府と条件はそろいつつある。
もし僕がオセアニアのような国家で暮らしていたらなんかは寝言で変なことを喋った罪で死刑とかそんなところだろう。違ったとしても、キャラからしてろくな死に方ができないのは間違いない。やはり戦うなら今のうちということか。
(オイシン)
浪人:おチェケ丸殿の講評
詰まらん。誠に詰まらん。
詰まらんというのは、「詰まらない」=「終わりがない」ということで、王様が逃げ回ってばかりでいつまでたっても終わらない将棋はオモロないんちゃうんかなぁ、ということやろうと思うけど、オイシンの将棋は差詰め、始めては見たものの実はルールが良く分かって無くて、いきなし王様で王様に「王手」をかけてしまって、なんやもう終わってもたやん、ちう感じ。
『金閣寺』くらいまではまだまだ我慢出来た様な気もする。いやはや、特にこの最近の二本は誠に惨い。前回の『アルジャーノン』と今回の『1984』みたく、テーマが「大文字」でこれ見よがしに記してあるような本のレビューを書かせると、全然ダメ。いつもいつも気が遠くなるような時間をかけて課題を提出してくるが、こんなレビューなら最初の 20 頁くらい読めば書けると思うで。
兎に角「書物の表面」と「オイシンの網膜」の間でしか思考されていないねん、この文章は。つまり「拡がりがない」。で、こう書くのが正解ですなんて言うつもりもないが、たとえばこんなん?
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作者がこの話を書いた 1948 年て、どうなん?
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現実世界は 1984 年から既に 20 年ばかしたっているが、どうなん?
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物語の中で揶揄されている共産主義国家ていうのんは、何の因果かこの物語の背景となっている 1984 年辺りから次々に崩壊していって、現在いよいよ資本主義の完全勝利か? ということなんやけど、どうなん?
まあ、(オイシンのレビューが)以上の事に全然触れてないワケやないけど、どうも網膜に映ったモノに少しばかり反応している様にしか思えんぞ。なんというか「幽霊怖い」みたいな。もうちっと掘り下げなさい。
実際、オイシンは他人の意見に直ぐ左右され、フーコーの振り子の如くビュンビュン考えを改めてしまう所の人間であるので、
もし僕がオセアニアのような国家で暮らしていたらなんかは寝言で変なことを喋った罪で死刑とかそんなところだろう。
なんてことは滅相もなく、「二重思考」なんて面倒臭いことをたれなくとも、スイスイと生きていけるんではないのん、オセアニアでは。
糞便はちゃんと消化したモノを放りなさい。もっと野菜を食べよ。今回は書き直しなさい。
(おチェケ丸)
師範代:馬場三蔵の講評
さて、「90 年代大量発生型馬鹿」の特徴としては、
- 政治に鈍感である
- 歴史に盲目である
- 日本語の読み書きに不自由である
- 議論ができない
- 妙に自信満々である
- 痛い
…などが挙げられよう。オイシンも、ひところは「90 年代大量発生型馬鹿」の岐阜県代表選手であったわけだが、『一九八四年』評(と、いうか感想文)においては、『ポリー・マグー』評などに見られる「まわりが見えてない」っぷりは影を潜めており、自分のエンタテインメント観を見直すなど、思考を深める努力の跡が見受けられるので評価できる。
また、「誤字脱字があったら殺す」と脅したので、今回は大いに減り、「テキストを大事にする姿勢」が育ちつつあるのも良い。“entertainment”――「エンターテインメント」を「エンターテイメント」と表記しているのは、噴飯ものだが、これは 90 年代型馬鹿のみならず、普通の馬鹿でも間違いがちなので、ここでは見逃しておこう。
『一九八四年』は、直接にはスターリニズム批判の書である、と予備知識を与えたので、色々調べたようだが、いかんせん、政治的な物事を考える習慣が決定的に不足しているので、いまいち調べきれなかったようだ(調べ方にも問題があるだろうが)。
しゃあないので親切にも若干解説しておく。有り難く読みさらせ。
『一九八四年』が書かれた当時、すなわち第二次大戦直後は、ヨーロッパでは「ヒットラーをやっつけたソビエト偉い! 共産主義バンザイ!」という世論が大勢を占めていた。イタリア、フランスなどでは「ファシズムに命懸けで抵抗した共産主義者最高!」ってことで共産主義ブーム。そういう中で、「共産主義」批判の書を書いたオーウェルはなかなかの偏屈者なのだ。『一九八四年』は構想段階では『ヨーロッパ最後の男』という題名だったらしい。「共産主義」によってヨーロッパ的なモノが破壊されつつあった、ってことだな。
ジョージ・オーウェルはかつて下層労働者の生活をレポートした『ウィガン埠頭への道』などを書いた「社会主義者」であった。社会主義者が痛烈に「共産主義」を批判しているのだ。オイシンは無意識的にか『ソドムの市』を引き合いに出しているが、ポジションとして、1960 年代イタリアの学生運動をプチブル的と批判したパゾリーニに似ている、と言える。
オイシンは「『社会主義』と『共産主義』って違うんですか?」と聞くだろう。当時の「共産主義」の主張は、革命は暴力革命しかあり得ない、としており、一方の「社会主義」は、議会を通じての革命もあり得る、と主張していた。
彼はスターリン型の「共産主義」に懐疑的だった。なぜなら、かつてスペイン人民戦線に参加し、共産主義者に痛い目に合わされたことを根に持っていたからだ。と、言うとオイシンは「スペイン人民戦線って何ですか?」と聞くだろうが、面倒くさいのでこれは省略。ケン・ローチ監督『大地と自由』を参照のこと。
またヒトラー台頭直前の「共産主義者」は、主要な敵を、革命の路線を見誤らせる「社会主義者」であるとして、社会主義者を徹底的に敵視、攻撃した過去を持つ。ドイツにおいては共産党がナチス台頭の地ならしをしたようなものらしいぞ。
「共産主義者」は、1935 年、コミンテルンが「反ファッショ人民戦線」の方針を決定した以降、「社会主義者」と協力することになった。しかし、それ以前は「社会主義者」はファシストよりヒドイヤツら、と見なしていたのだな。
と、書くとオイシンは、「コミンテルンって何ですか?」とか「ファシストって何ですか?」とか聞いてくるだろう。…って書くと「失礼な! ボクかてファシストくらい知ってますよ!」と言うかな? 「ファシストって何?」と聞けば、「………ヒトラー」とか答えるのだろうな。「文で答えろ、文で!」…なんかどうでも良くなってきたなあ。親切にもほどがあると思うので、これくらいにしておく。
で、読みとり方は良い、と思うが、せっかく人様に読んでいただくのだから、もっとサービス精神が必要である。無理にでも色々テーマをデッチ上げた方が良い。例えば、
- 岐阜県における「オーウェル的」世界の現れを暴く
- オパール店主の顔色をうかがう私のイングソック的心根を赤裸々に吐露
- ついつい思考停止的な、当たり障りのない受け応えをしてしまうオレ様流「二重思考法」
…とか。って書くと、また、無批判に「あー、そうですかー」と納得されちゃって「よーし! 次はがんばるぞ!」ってことになるのであった。やれやれ。
(馬場三蔵)
妹おたまの講評
現在、絶版になっております『1984 年』。図書館で検索してもみたのですが、入手できませんでした。ですので今回は、本を読まずに講評です。少々無理があるかもしれないという可能性を踏まえた上で、どうぞお読みくださいませ。
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どうしてこんなに解りやすいのでしょう? 私は『1984 年』に対して知識ゼロです。なのに、だいたい書の内容は見えてきます。兄上、論評すなわち「論じ、評すること」は、書を突き放してじっくりと観じることです。しかし、兄上はひたすらに、物語に取り込まれてしまっておられます。
それとも僕のエンターテイメント観が間違っていたのだろうか。
この疑念は良うございました。しかし、その後の、
つまりもう僕を助けてくれる人はいなくなっちゃったのだ。これは困った、この状況で僕が戦う気にはとてもならない。
このあたりから、的が外れ出したように思われます。何故登場人物になってしまっているのです? これが物語の魔力でしょうか。しかし、ここで踏み止まらなければなりません。今一度、「論評」の定義に戻りましょう。
「ある作品の内容やよしあしについて、その価値を論理的に定めること」(『旺文社詳解国語辞典』 1989 年 山口明穂 , 秋本守英 編より抜粋)
論理的に定める為に、どうか、客観性を失いませぬよう、切にお願い申し上げます。登場人物の気持ちになって、困ったり喪失感を味わっていては、著者の思うつぼです。「良い読者」で終わりたくはないでしょう? もっとねちねちして良いのです。但し、論理的であらねばなりませんが。書を疑い、己を疑い、構造を暴くのです。
兄上の「論評」には、物語のあらすじを記述したところが多くみられます。これが例えば「すいせん図書紹介コーナー」で、読んだことのない人に興味を抱かせるのが目的なら、これも有効でしょう。しかし、論評では避けるべきです。他に書かねばならないことが、きっとたくさんあるはずです。批評するための最小限の引用に止めましょう。
エッセンスの凝縮された言葉を。一字一句たりとも譲れない、一言でも削れば文意が変わってしまう! と言えるほどにまで、突き詰めましょう。その末に、迫力と、存在感と、説得力がにじみ出るのです。
(おたま)
小形剣之信道場主の講評
わっはっはっはっは!!! 私は今、凄く上機嫌である。何故か? それは、この力を果てしなく消耗させるオパール道場を、いったんここに閉鎖するからだ。何故閉鎖するのか? それはもう言わずもがなかもしれないが、弟子オイシンの提出するレポートがあまりにも面白くないからだ!!!
まったくもって詰まらぬものを書いたものだ。おチェケ丸殿が憤慨するのも最もで、これは小学生が先生の顔色を伺って書いた作文と変わらぬ。「みんなが仲良くする事が大切だと思いました」「次こそはボクもお年寄りの方に席を譲ろうと思いました」「差別は人の心を傷つけるのでいけないと思いました」…等というやつだ。こういうのはこの世で一番下らない文章である。
一方、馬場三蔵師範代の言うとおり、良くなってきているのもまた事実だ。最初の頃は、とても脳味噌のある生物が書いているとは思えなかったが、今回の文章は、まがりなりにも頭の悪い小学生並みの文章にはなっている。
では、「良くなること」と「面白くなること」は別物なのだろうか? しかり、別物である。弟子オイシンの面白さは、ひとえにその「途方もない馬鹿さ」にあったのであり、その「馬鹿さ」が改善されれば、面白さが減ずるのも当然だろう。弟子オイシンは、「面白い馬鹿」から「凡庸な馬鹿」へと変化したのだ。これを「良し」とするか「悪し」とするかは難しい所である。しかし、私は次の二つの点から、これを「良し」とみなす事にした。まず第一は、弟子オイシン自身が「途方もない馬鹿さ」から抜け出したがっている事。そして第二は、道場にずうっと通い続けながら、なお「途方もない馬鹿さ」を維持するのは至難の技ではないかと考えるからだ。
弟子オイシンの「途方もない馬鹿さ」には、弟子オイシン個人の問題だけではなく、弟子オイシンの属している文化・環境の問題もある。例えば、弟子オイシンがまだオパールに通い始めた頃のエピソードに、カウンターで「ブライアン・アダムス最高!」と叫んで、みんなに大うけしたというものがある。
それは勿論、少しでも音楽を聴いている人達の間では、ブライアン・アダムスというのは聴く事自体が恥ずかしいような存在であるという共通了解があるからだが、この話を聞いたクラタニくんがビールを吹き出しながら「それってただの田舎のロック好きじゃないですか。うちの田舎にもよーさん居りましたよ」と言った事からも分かるように、こういった共通了解とは違う共通了解の存在する世界というものがあるのだ。そこではブライアン・アダムスが好きな事はいたって普通の事である。そして、そういった世界の方が遥かに大きい。で、弟子オイシンは、その世界では「面白い馬鹿」でも「凡庸な馬鹿」でもなく、「普通の馬鹿」に過ぎないのだ。
弟子オイシンはこれまでの人生で、まともに音楽を聴いたこともなく、映画を観たこともなく、本を読んだ事もない。にも関わらず、オパールに来るまでのオイシンは、自分の事をそんな人間だとは考えてもみず、それどころか、京都に出てきて WEB デザイナーを名乗っている事からも分かるように、田舎に残っている友人達に較べれば、自分は文化的に洗練されていると思っていたふしがある。
オイシンが今まで属していた世界でなら、そういった思いこみも許されただろう。しかし、こちらではそうはいかない。勿論、帰りたいのならいつ帰って貰っても結構である。が、あくまでオイシンがこちらの世界に留まりたいと言うのなら、突っ込まれまくるのは覚悟して貰わなくてはならない。そしてそれが道場としての正しい姿だと私は思う。
ただ、公開道場という性格上、あまり詰まらないものを連発して書かれると、読んでくれている人達に申し訳がたたないので、多少やり方を変えることにした。そう、道場閉鎖といったが、実は一時閉鎖ののち、また再開する予定なのだ。ガクリ。さらなる疲労が重なりそうである。これは是非とも道場再開に合わせて、月謝の値上げをしなくては。
それでは皆さん、しばし御機嫌よう。
(小形剣之信)
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第一部 完
ごく一部の方々にご好評いただいておりました「モーレツ! オパール道場」ですが、とりあえず第一部終了です。装いも新たに、シゴキは継続されますのでお楽しみに!