地獄のお気楽
スペイン観光
04-02 Barcelona
04/Aug./2002(SUN.)
パルク・グエル その 2
オラ! さて 60 軒の分譲住宅地として計画されたパルク・グエルですが、ガウディ自らが買い、施主グエル自身も屋敷を建てた以外は、弁護士トゥリアスが一軒建てただけで宅地化に失敗します。
1914 年には工事中止、1918 年にグエルが死去した後、1922 年に遺族によってバルセロナ市に贈与されて市民公園となったのでした。…「贈与された」と書きましたが、これにも各種文献に混乱があって、パルク・グエル内で販売されていたミニガイドブックでは「バルセロナ市に買い取られた」と書かれてある。どっちやねん。
さらに「弁護士トゥリアス」も、「医師」と書いてる本があったりと、かようにガウディ研究は混乱しているのである、うむ。…と私は呆然と『ガウディのパルク・グエル』著者アルデバランの「アントニオ・ガウディは誤って研究されている」との主張にも一理あると深く頷いたのであった。
それはともかくガウディが、死の直前まで住んだ家が美術館として現在公開されており、そちらは入場料 3 ユーロ。パルク・グエル自体は入場無料でーす。行かな損やで。
さてさて今日もまたウンチク、「パルク・グエルの宅地化がなぜ失敗したか?」について。
これについては、「バルセロナ中心部から離れていて不便だったから」という説が大勢を占めているようです。
しかし『ガウディのパルク・グエル』著者アルデバランは、当時ここに家を建てられるだけの資産を持った人たちは、たいてい自家用車持ちか、クルマを買えるはずだったから、それは理由にならんと「不便説」を一蹴しております。パルク・グエルにも車道が設けられており、クルマ持ちを購買ターゲットにしていたのは間違いない。それに旧市街まで歩いても 40 分くらい、クルマだったら 10 分以内じゃないかしら? そんなに遠くない。
それではなぜか? 「あまりにカタルーニャ主義的なパルク・グエルに入居するのは、反政府的と見られると当時の金持ちが敬遠したから」というのがアルデバランの仮説。
1900 年に工事が始まったパルク・グエルですが、建設途上でバルセロナの政治情勢は、急展開。当初バルセロナでは「反マドリード」で資本家と労働者の利害が一致、階級を越えて「カタルーニャ主義」運動が展開されたのですが、アナキストの影響も受けた労働者は 1902 年にゼネストを敢行、バルセロナは大混乱に陥ります。
このゼネストによってバルセロナ資本家は、自分たちの真の敵は労働者であり、自らの資産を守るには結局マドリード中央政府に頼らざるを得ないことを自覚します。ゼネスト以降、カタルーニャ主義は政治運動と、文芸・芸術趣味に分裂し、アナキズムの影響も受ける政治的カタルーニャ主義は「危険思想」になったのですね。
グエルも 1909 年に爵位を受けるなどマドリード中央政府との関係を強め、パルク・グエルの政治性を隠蔽する必要が生じます。政治的カタルーニャ主義と関係するニームをモデルにしたことは秘密にされます。ガウディも「パルク・グエルはイギリスの教育施設をモデルにした」と嘘をつかざるを得なくなる。
しかし急場しのぎの隠蔽工作は実らず、「パルク・グエルに住むのは、マドリード中央から目をつけられる危険を伴う」と当時の資本家は判断し、かくしてパルク・グエルの宅地化は失敗したのだ…との説が『ガウディのパルク・グエル』で展開されます。ふむー、なるほど。
…って、『ガウディのパルク・グエル』だけ読んでも、ニームというのがどういう街なのか、なぜ隠さなければならないのかイマイチよくわからないのですが、パルク・グエルが建設された 1900 〜 1914 年はバルセロナにとっても激動の時代だったのである。うむー。
と、どうでもいいまとめをして、今日はこのへんで。次回「パルク・グエル その 3」。アスタ・マニャーナ。
(BABA)
< Back | Next > |