メゾン・ド・ヒミコ [☆☆☆☆]
Text by BABA私を迎えに来たのは、若くて美しい男。彼は、父の恋人だった。ババーン! マスターピース『ジョゼと虎と魚たち』の犬童一心監督+渡辺あや脚本コンビ、というか、蔦井孝洋撮影監督を加えたトリオ待望の新作。
「私」=柴咲コウを迎えに来た「若くて美しい男」=オダギリ・ジョー、彼は「父」の恋人、「父」=田中泯は銀座の名物ゲイバーのママさん、引退してゲイの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」のオーナーとなっております。
田中泯は、ガンで余命いくばくもなく寝たきり状態。柴咲コウは「自分と母親を捨てたオカマに会わなきゃならない理由なぞ何もないわよ!」とかたくなに拒否するのでした…というのが発端。
さてこれは人を隔てる「壁」に関する物語。柴咲コウは自分(たち)を捨てた父との間に堅固な「壁」をたちはだらかせ、父さん憎けりゃゲイまで憎い、メゾン住人に対しても「壁」をたちはだらかせます。
みなさまの予想は「ふむ、柴咲コウはかたくなな心をとろけさせ、メゾン住人と心の交流、父との確執は『ビッグ・フィッシュ』『チャーリーとチョコレート工場』のように雲散霧消、『壁』は崩れ、そのとき私は茫然と泣くのであろう」。…でしたでしょうか? 『ジョゼ…』の犬童一心+渡辺あやでございますから、そんな癒しい展開を見せるわけなく「壁」は、厳然と存在し続けるのであった。
「壁」をたちはだらかせるのは柴咲コウだけでなく父・田中泯も「壁」を築いて自分を守ってきた、と想像できます。田中泯の部屋の「壁」が印象的です。裸体のドローイングが飾られファンシーな花の絵が描かれている。父の「壁」は超然と美しく同時に嘘もの感ただよって滑稽でもあります。
この部屋で父は娘に最後の言葉を投げかけます。ここの田中泯が最高ですね。「父娘の確執の物語」から想像できるものから、もっとも遠い結末がここにあります。田中泯はまるで「呪いの言葉」を放つかのようです。
そして私はリアルを追求する犬童一心+渡辺あやの意志に茫然と感動したのでした。身もフタもなく世界を描写するスタイルは、ケン・ローチに通じるものがある、と一人ごちました。
「壁」を越えて人に届く言葉は、呪いの言葉だけなのかもしれません。「悪意」は決して人には届かず、自慰的な「落書き」としてただ「壁」にはりつくのみ。逆にラストシーン、メゾン住人は柴咲コウに対するウェルカムな心情を表明します。その言葉もまた「壁」にはりつく。しかし少々のトンチと「ピキピキピッキー」との呪文がともなえば、それは人に届く言葉になるのだ…と、そんなことを考えた私なのでした。
「壁」とは「憑き物」みたいなもので、とりはらうには「お祓い」が必要なのかもしれません。
柴咲コウとゲイたちは、クラブで「壁」が消える一瞬を得ます。これこそが「クラブ」の持つすぐれた機能なのでしょう。しかし、「壁」が消えると、悪意ある他者にダイレクトにふれてしまう空間にもなってしまうので注意が必要なのですが。
このシーンでフロアの男女はみな同じ振り付けで踊っており、そこから私は「盆踊り」を類推しました。これすなわち「クラブ」とは現代の「盆踊り」空間である、との作者のメッセージがこめられている、とにらみました。
ゲイ老人たちは茄子と胡瓜で牛馬をつくり、唱歌を歌って、「お盆」を大切にしていることが描かれます。ゲイ老人たちもまたそれぞれに「壁」を築いていますが、それぞれに人生を楽しんでいます。「壁」を築くのは自分を守るということ、それを「憑き物」にしないためには、「盆踊り」や「茄子・胡瓜の牛馬」などでご先祖様を丁重に迎える日本のこころを大切にすることが必要なのだ、ご先祖様に敬意を払うとは、自分の人生を肯定することなのだから…。
ああ! またさっぱりわけのわからないことを書いてしまいましたが、とにもかくにもゲイ老人たちが秀逸、わけても田中泯。『たそがれ清兵衛』の殺陣で画期的な動きを見せましたが、ここでは「動かない」演技においてバチグンの存在感を示します。オダギリ・ジョーもヘタな役者さんならどうしようもなくなってしまいそうな難役を好演、そして柴咲コウも「中途半端な美人」感あふれるメイクダウンで素晴らしいです。
犬童一心監督は『死に花』『いぬのえいが』『タッチ』と、そこそこ収益をあげることを義務づけられた作品をそれなりにこなしつつ、一般受けはむずかしかろう題材にチャレンジするその意気やよし。バチグンのオススメです。
☆☆☆☆(☆= 20 点・★= 5 点)
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Comments
投稿者 ryo : 2005年10月13日 12:48
こんにちは。
メゾン・ド・ヒミコは良かったですね。
「あなたが好きよ」で泣きそうになってしまいました。
題材が題材だったので、もっとどろどろしているかと思っていたのですが、問題は何一つ解決していないのにも関わらず、観賞後にさっぱりした気分になれる、不思議な映画でした。
「SHINOBI」と同日に観たのですが、オダギリ・ジョーはこちらの方が圧倒的な存在感があり、監督や脚本家の力量差というものを実感してしまいました。
投稿者 baba : 2005年10月13日 13:47
ryoさん、こんにちは!
あの一言、重い!! 重すぎる! と、私も茫然と感動しました。
ちなみに私は、「レディーをエスコートするのにふさわしい格好しなさい」みたいなところで泣きました。
> 問題は何一つ解決していない
ですね。しかし、柴咲コウは確実に強くなった! それはオダギリジョーやゲイ老人も同様なのであろう、と私は感じました。
『SHINOBI』は、せっかくオダギリジョーと仲間由紀恵が共演しているのに、まったくもったいないことです。