郵便的不安たち」
東 浩紀
この本を一読してまず感じたのが同時代性である。著者の東浩紀は私より 2 歳年下だが、この本および前著の『存在論的、郵便的』が書かれたのは 1993 年〜 1999 年の間であり、私がショートカットに連載していた 1995 年〜 1998 年とほぼ重なる。そして両者が書かれたモチーフはというと、多少乱暴だが、ほぼ同じといってよいだろう。つまりそれは「大きな物語」の解体後バラバラに乱立した共同体をいかに繋ぐか、いかにコミュニケーションを回復するか、という問題である。
コミュニケーションとは話の通じる仲間内で喋ることではない。そういう仲間は自分の鏡像に過ぎず、そういった会話はナルシスティックなマスターベーションに限りなく近いからだ。話の通じない人達と如何に話をするのか、というのがコミュニケーションである。今の人達はそういったコミュニケーション能力を著しく減退させている。私とてそうだが、いかにしてコミュニケーションを回復するか、という強力なモチーフは持ち続けている。しかしどうやら最近の人達は、そういったモチーフを持っていない、そもそもコミュニケーションの必要性さえ分からないらしいのだ。別に楽しくやってるからわざわざ面倒くさい「他人」と喋る必要ないじゃん、という訳だ。しかしこれは非常に危険な状態ではないだろうか。なぜ危険なのか。それはお互いに無関心な人々というのが管理者にとって一番管理しやすいからだ。そして強力な管理体制に組み込まれれば、「楽しくやる」ことなど不可能に近いからだ。現に 90 年代にはいって人々がどんどん自閉化するのに比例して、ますます政府は管理体制を強めてきている。上からの圧力には横との連帯が必要だろう。それにはコミュニケーション能力が必要なのだ。この危機意識において私はこの本に同時代性を感じた。
東浩紀のユニークな点は、彼がオタクだった(である)という所だ。ここでいうオタクとは、宮崎勤的な自閉したマニア人間を指すのではない。SF 、アニメ、ゲーム、アイドルといった文化を愛する人達の事を指す。つまり一般的によく言われるようなハイカルチャー対サブカルチャーといった図式はすでに無効であり、ハイカルチャー、サブカルチャー、オタクカルチャーといった様々な「カルチャー」が上下の別なく乱立しているのが現状なのだ。そして「自閉」ということを言えば、別にオタクカルチャーの人達がみんな自閉しているのではなく、全てのカルチャーに自閉した人々はいるという事だ。それでもオタクに対する世間的な偏見は強い。自閉=オタクという偏見の中でオタクをやりつつ、世の中をしっかり見据えていたからこそ、東浩紀はそういった偏見を持った人々の閉鎖性を逆に指摘する事ができたのだ。
東浩紀は、自分の好きになるものは他人に自慢できないものばかりだ、と言う。こういう認識が、コミュニケーションへの欲求を産むのだろう。私も同様で、「サラリーマンなんてダサいぜ」とか言いながら「アーティストとかクリエイターへの夢を追って」フリーターになる周囲の人間にうんざりして、あえてサラリーマンになってはみたものの、どうやったって同僚の連中と話が合わない。さてどうするか、というのが「サラテク」のモチーフとしてあったのだ。
この本は文芸時評やエッセイ、論文、対談などを集めた雑多なものであり、東浩紀の迷走ぶりや乱暴さが至るところで目につくが、そういったものもみなコミュニケーション回復への試行錯誤として評価できる。かえって好感さえ持てるぐらいだ。この本は「逃走」のすすめではなく、「迷走」のすすめとして受け取り、各々が思いっきり「迷走」するのがよいと思われる。
オガケン Original: 1999-Jan-06;