テオレマ
ピエル・パオロ・パゾリーニ作品は小・中学生の頃に『アポロンの地獄』、『デカメロン』などをテレヴィで見た記憶がなきにしもあらず、であるが、「つまらん映画やなあ」と思った以上の記憶はない。某カフェーの店長が絶賛しているので見たい見たい見たいと思っておったパゾリーニ映画祭が、とうとう京都みなみ会館に。願いは通じるものだなあ。
60 年代においてはゴダールと並び称される重要監督だったらしいけれど、ゴダールはゴージャスなパンフレット付きでリヴァイヴァル・未公開作が公開されて若い観客を広げているのに(広がっているのか?)、他方のパゾリーニは忘れられて久しい。何故にパゾリーニは日本において人々の口に上らぬ存在になり果てたのかと考えるに、「何モノにも似ていないから」ではないか、と思う。
ゴダールと言えば、映画からの引用を多用した映画づくりで、映画を語るときどこからでもゴダールに結びつけることが可能だ。一方パゾリーニの場合は、パンフの四方田犬彦の文章でも紹介されているべルトルッチの証言――カメラを移動させるのにレールをひくことすら知らなかった、というくらい映画とは別のところからやってきた才能であり、元ネタ探しが主要な任務と化した日本の映画「評論」事情ではパゾリーニの名前はすっぽり抜け落ちてしまうのだ。パゾリーニの場合はイタリア絵画からの引用が多く、日本の映画「評論」家って映画しか見ていないヤツが多いから上手に語れないんだよね。…ってエラそうですね、オレ。
何故に日本において、と重ねて問えば、ゴダール、パゾリーニは、左翼的な信条の持ち主なれど、ゴダールの表現には韜晦が多く、パッと見は左翼と判別されないところがある。政治性を抜きにゴダールを語ることは可能で、実際「ゴダールの映画って赤色がきれいだよね〜」など、幼児とも充分語り合える感想が述べられる傾向にある。パゾリーニはストレート直球左翼であり、(方法論の善し悪しは別にして)思想・信条で映画を語ることが少ない日本では、生半可な評論家の手に余る存在なのだろう。…と、適当なことを述べましたがここまでが前置き。
『テオレマ』とは「定理」の意らしい。謎の美男子、テレンス・スタンプが、気の狂った郵便配達人が届ける電報とともに資本家の家庭にひょっこりお邪魔、旦那、その妻、息子、アンヌ・ヴィアゼムスキー演じる娘、お手伝いさんらと次々関係を結ぶ。やって来たとき同様、電報とともにひょっこりオイトマした後、残された家族の行動が気の狂ったものと化す。息子は「芸術は爆発だ」とばかりに妙な前衛美術に没頭し、娘は寝たきりで硬直、妻は色情狂となって男漁り、お手伝いさんは故郷に帰って聖者になる。そして旦那は、労働者に工場を譲渡し、裸になってぎゃあ、とわめく。何が一体、「定理」なのか? ブルジョアジーの家族なんて、こういう末路をたどるのが筋道なんだぜ、ということか? その辺は見た人がめいめい考えれば良いことであります。
ともかく「何モノにも似ていない」映画であるから、「何が言いたいのかさっぱりわからぬ」という向きもあろう。しかし、サンプリング、引用などと、クリエイティブを標榜しつつ常に何かに似ている作品が氾濫する今日、本物のオリジナリティを持つパゾリーニは強烈に新鮮。さあ、みなみ会館へ走るべし!
BABA Original: 1999-Nov-30;
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