華氏911
Vol. 1
それは自由が燃える温度°ババーン! 『ボウリング・フォー・コロンバイン』の突撃ドキュメンタリー監督マイケル・ムーアの話題作でございます。
私、『ボウリング〜』の場合は、全米ライフル協会を「臆病な白人」のシンボルとして糾弾したことに若干の違和感を感じたのですが、今回の『華氏 911』は、全面的に支持いたします。
われらが小泉首相は『華氏 911』について、「偏っているから見たくない」と申されたそうで、なるほど一国の首相ともなると映画が偏っているかどうか、鑑賞せずとも判断できるすぐれた情報収集能力をお持ちなのですね、こりゃ日本も安泰ですな、あっはっは、と申しますか、そもそもこの世に偏っていない映画があるのでしょうか? 中立・公平な映画など存在せず、すべての映画は偏っていると私は思っております。ってそれこそ偏った考え方ですが、私はむしろ、「偏っていない映画なんか見たくない」と思うわけです。はい。
そんなことはどうでもよくて、この『華氏 911』が明らかにしているのは、アメリカ合衆国はまさに現在、ジョージ・オーウェルが『1984 年』で予言した、軍事独裁国家になってしまっている、ということであります。
『1984 年』で描かれた国家は…って、ずいぶん昔(1984 年)に読んだきりなのであやふやですが、国家存続のために戦争が永続されており、国民の人権は「戦時体制」なので、極端に制限されている世界です。と記憶しております。
アメリカもまた、1929 年の大恐慌を第二次大戦で乗り切って味をしめて以降、朝鮮戦争、冷たい戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして今日の「対テロ戦争」で、大借金を抱えながらも経済を維持、国家存続のために永遠に戦争を続けざるを得ない状況で、それはまさしく『1984 年』国家である、と言ってよいでしょう。
映画の前半は、ブッシュとサウジアラビア石油財閥との交遊が暴かれます。すなわち財界・資本家が代表(傀儡)をワシントンに送り込み、戦争を起こさせ、戦争利権でボロ儲けしまくっており、それは「政治と財界の癒着」などという生やさしいものではなく、ブッシュやラムズフェルド、チェイニー自身が財界人そのものであることが示唆されて、私は改めて怒りをおぼえました。
この前半は『ボウリング・フォー・コロンバイン』同様、既存の映像が恣意的に編集されており、天の邪鬼な私はつい「どこまでホンマかしら?」と茫然と途方に暮れてしまうところ、今回は事前に『おい、ブッシュ、世界を返せ!』 を読んでおりましたので、わりあいすんなり激しく同意いたしました。
…とはいえブッシュ政権の面々を西部劇カウボーイに摸すところなんかは、例えば日本人を「出っ歯・メガネ・カメラ」で「どーもどーも」なキャラとして描くみたいな? 「低劣なプロパガンダ」の臭いがプーンと漂って少々寒く(好きですけど)、勧善懲悪に収まらないリアルなカウボーイを描いた『ワイルド・レンジ』(ケヴィン・コスナー監督・主演)を見た後では、西部劇カウボーイにとっても失礼な話ではないか? と思ってしまいました。
マイケル・ムーアは、傑作ドキュメンタリー『アトミック・カフェ』(1982)を作ったケヴィン・ラファティ監督に弟子入りしてドキュメンタリー作りを学んだそうで、政府やマスメディアが製作した既存の映像をサンプリング(スクラッチ?)する手法が同じでございますね。
『アトミック・カフェ』の場合は、原子爆弾に関する政府のプロパガンダ映像を再編集して、政府の意図とは真逆の、「原子爆弾の恐怖」「無知であることの悲劇」という結論が浮かび上がってくる仕掛けがスリリングでしたが、作り手のコメントは控えられており、結論は観客が自ずから下せるようになっていた、と記憶しております。
『アトミック・カフェ』的手法を使っていても、『ボウリング〜』『華氏 911』は、映像がマイケル・ムーアの個人的見解の絵解きでしかないように見えるのが少々物足りないところ、とはいえ、今回『華氏 911』はムーアの個人的見解それ自体が、普通日本のテレヴィでは決してお目にかかれないようなラジカルなもので、ブッシュ政権の忠実な下僕である小泉首相が「偏っているから見たくない」とモタモタしている間に、『華氏 911』が日本でも大ヒットしていて普段はガラガラの京極弥生座も満員御礼状態、やがて日本国民の間に反ブッシュ、アンチ小泉首相感情が盛り上がればなかなか愉快痛快、そうすると小泉首相は「偏っている映画を、偏っているから見たくないというのは間違い!」との教訓を得るであろう。
閑話休題。って長くなりそうなので、続きは後日。
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