キンスキー
我が最愛の敵
名監督には、監督の分身とも言える俳優が付き物でして、ジョン・フォードに対するジョン・ウェイン、アン・リーに対するトビー・マクガイヤ、山田洋次に対する吉岡秀隆などが有名処ですが、ヴェルナー・ヘルツォークに対してはやはり、クラウス・キンスキーです。そのキンスキーに対する愛憎を、ヘルツォークが語りまくるドキュメンタリーです。
「ヘルツォークに狂う」パンフレットをパラパラと読んでいると、
「狂人が映画を作るとどういうことになるか。もしそれを知りたいのならば、ヴェルナー・ヘルツォークの映画を観ればよい。」
…とのミルクマン斉藤氏の文章があります。どうやらヘルツォーク、そしてキンスキーは、すっかり「気狂い」と思われているようですね。しかし、「気狂いじみた人々が登場するが、作り手たちは強靱な理性の持ち主ではないか?」と思うのです。
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キンスキー―気狂いの秘密
『ピカソ―天才の秘密』という映画がありましたが、このドキュメントはそれ風にいうならさしずめ「キンスキー―気狂いの秘密」でして、ヘルツォークはキンスキーの人となりを解き明かしていきます。
『フィッツカラルド』で何人もの主演俳優に逃げられ、「最早、自分が演じるしかないのかーっ!?」と進退窮まったヘルツォークは、キンスキーに会いに行きます。キンスキー答えて曰く「何も言わなくてもわかってるさ…。私がフィッツカラルドだ!」
この偉大なる男気! 私は呆然と感動し、「偉大過ぎる男気は、ある種の人々には狂気と映るに違いない。」と得心したのでした。
『フィッツカラルド』は当初、ジェイソン・ロバーズ+ミック・ジャガー主演で撮影が進められたのですが、撮影の過酷さに耐えかね仮病などを理由に撤退。この二人の未公開ショットを見ることができます。教会の塔の上で二人は宣言します。「おーい、オペラだー、オペラだー。街にオペラがやってくるゾー。」カラーンコローンと鐘が鳴らされ、なんともほのぼの、牧歌的な雰囲気が漂います。
それに続けてキンスキーの演技が比較されます。「オペラだっ!!! オペラが来るまでこの教会は閉鎖だぁ!」ガンガンガンガンガンガンガンガン! と鐘を乱打。うーん、文章で書いてもこの違いは如何とも表現しがたいですね。ともかくヘルツォークも、「やれやれ、こんなことになるのは分かっていたけどネー。」と呆れつつ、その圧倒的な演技の強度に猛烈に感動したのではないでしょうか。と、いうかミック・ジャガーやる気無さ過ぎ! キンスキーただ一人の存在感に、アカデミー賞俳優 J ・ロバーズ、スーパーロックスター M・ジャガーの二人がかりでもまったく及んでいない事実に私は呆然と感動したのでした。
キンスキーの天才性を示すだけでなく、「キンスキーは、こうカラダをひねってフレームに入ってくるんだな。」などと、ヘルツォークはその秘密(の一部)を明かしていきます。キンスキーにしてみれば
「私は傑出してるなんてもんではない! 壮大なのだ! 天才なのだ!」
…と気狂いの誹りを怖れずに作り上げた怪優のイメージを、簡単に暴かれてしまってはたまった物ではないでしょうね。撮影を中断してぎゃあぎゃあ騒ぐキンスキーの姿は、ホンマの気狂いなんですが、同時に「森に入るのを極端に怖れていた」と、意外に小心者の側面も暴かれたりして、キンスキーがこの作品を見たら怒り狂い暴れまくったことでしょう。ヘルツォーク、なかなかの意地悪者ですね。
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ヘルツォーク―気狂いの秘密
同時にこの映画はヘルツォークの創造の源泉をも解き明かしていきます。
『アギーレ』冒頭の峻険な山を延々と続くキャラバンが進むシーンの撮影を振り返って、ヘルツォークは言います。「この瞬間、私はどういう映画を撮る人間か、決定づけられた。」
完全主義者として知られるスタンリー・キューブリックも「撮るべきモノを作り上げるだけだ。」とか言っておりましたが、ヘルツォークも「撮るべきモノ」「見たくて見たくてしょうがないモノ」を作り上げるために圧倒的に執着する監督なのですね。まず「素材」です。カメラワークや編集、小粋な台詞で誤魔化すことは一切なし。狂気を描くためには現場に狂気を横溢させるのだ!
文明社会に全くの自然児が現れたら→『カスパー・ハウザーの謎』、出演者に催眠術をかけて映画を作ってみよう→『ガラスの心』など、ヘルツォークは常に狂気が立ち現れる瞬間、理性の限界を見極めようとしています。ヘルツォーク自身は、狂気、ロマン主義に憧れを抱きつつホントは強靱な理性の持ち主だと思うのです。でなければ修羅場を乗り越えて『フィッツカラルド』を完成させることなどできっこない! コッポラ『地獄の黙示録』も狂気に満ちた撮影現場だったようですが、それ以上とも思える狂気の現場をねじ伏せたヘルツォークは、決して気狂いではない、と思うのです。
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長々と書いて参りましたが、紹介されるキンスキーの名演技の数々は、前後の脈絡は判らずとも観客の目を釘付けにします。他の作品への言及が多いのですが、このドキュメンタリー単品でも、見事な一本の映画に仕上がっております。
ヘルツォークの、自らの手でキンスキーを殺さなかった後悔が滲み、キンスキーがすべてを賭けた『パガニーニ』の監督を引き受けなかった後悔が滲む、単純に死者を悼むのではない、ヘルツォークの、なんというか、「ラジカル」というか、「率直さ」に私は偉大なるドイツ精神をここに見たのでした。京都での上映は終わっちゃいましたが、オススメです。ここで一句。あの世でも 逢ったらヤダな キンスキー。
Original: 2001-May-27;
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