エクソシスト/
ディレクターズ・カット版
1973 年、オカルト・ブームを巻き起こした『エクソシスト』。音響をデジタル・リマスタリング、没シーンを加え、さらに CG でいくつかのカットに要らん処理を施してリニューアル。初公開当時、小学生だったボクは松竹座で 3 回見た。若気の至りとはいえアホです。前半は緊張感はあるものの割と退屈、チョビッとずつ怖がらせておいて、クライマックスの「悪魔祓い」に一気になだれ込む気色良さをあらためて確認。
今回、思ったのは、リーガンという少女に起こった怪異は、「悪魔憑き」なる超常的な原因を持ち出さなくても説明可能ではないか? ということだ。
両親が離婚、映画スターである母親は不在がち、リーガンは、パーティ席上で失禁したりと奇妙に反抗的な態度を見せ始める。母親は、病気に違いないと病院で検査。医者の予測は「側頭葉に異常があるはずだ」と物理的な障害を探し求める。検査は過酷なもので、リーガンのストレスは増大するばかりだ。
リーガンは、ただ母親に甘えたかっただけなのだろう。精神的な問題。そこに物理的な障害を求め、検査を繰り返したために症状を悪化させた、というわけだ。今回、治療シーンが大幅に加えられており、「間違った検査・治療が施されている」ことが強調されている。
物理療法ではお手上げとなって、ようやく精神療法が行われるが、精神科医はキンタマをつかまれただけで退散してしまって、打つ手なしと見なされる。リーガンは階段をブリッジで駆け下りたりとますます奇矯な行動を取るようになって、もうお手上げ、「悪魔祓い」の登場となる。
いくつかの怪異が登場する。リーガンの首が一回転するのは、そう見えただけ、部屋中の物品が飛び回るのはリーガンが投げているのだが、悪魔の仕業と思っている目撃者には見えていないだけ、リーガンが宙に浮くのは? 気のせいか?
オカルト・ブームを巻き起こした映画なのだが、ウィリアム・フリードキンの視点は、懐疑主義的なものだ。「悪魔」は、人間の精神が生み出したものと解釈できる。京極夏彦の小説なら京極堂が登場して「この世には不思議なことなど何もないのだよ」とのたまっても不思議では、ない。
こういう懐疑主義的な視点があるかどうか? がクラシックなホラーとモダン・ホラーを分かつモノかも? とか思ったりして。オカルト・ブームに火を点けたが、実はオカルトとはかけ離れたところに位置する作品である、と再見して思う所存。
もひとつ、今回いくつかのシーンでカラス神父がゲイセクシャルであることがかすかに匂わされている。カラス神父が信仰を失った理由は、一般的には母親に充分尽くすことができなかったこととされているが、実はゲイだったことが大きな理由だろう。73 年当時よりゲイ描写に関するタブーが薄れたことによる改変か。
昔見たとき周りでは「そんなに恐くないで」と大評判だったが、今回も、やっぱり恐くなかった、ってか爆笑シーン追加でさらに愉快な作品。しかし、ウィリアム・フリードキンのエッジの効いた演出が素晴らしい、とか思いました。いっぺん見ておいて損はないのでオススメ。ってかその辺の新作よりよっぽど客が入っております。
BABA Original: 2000-Nov-29;