ロゼッタ
イタリアン・ネオリアリスモの系譜に連なる、社会の隅っこで生きる人間の姿を徹底的な「リアリズム」で描く作品だ。
パンフレットの、監督ダルデンヌ兄弟の発言によると、
「社会の際(きわ)にいる人々に関心がある。社会の中心がどう機能しているかは、端にいる人々を見ればわかる」。
…ということで、なんとか仕事に就きたい、職を失いたくないと奮闘する少女ロゼッタを描くことで、ベルギー、のみならず現代資本主義が共通に抱える問題を告発する。「失業」とは、一体、どういうものか? 資本主義の非情さの本質は? を描くこの映画は、失業率が 4.8 %と戦後最悪らしい日本でも重要なものだ。
ケン・ローチも『マイ・ネーム・イズ・ジョー』で「失業」という状態が人間をいかに損なうか、を描いていたが、『ロゼッタ』はより純粋な、普遍的な形でそれを提示し、「倫理」の問題にまで観客に思いいたらせるのだ。
「どうして人を殺してはいけないか?」という問いを立てたとき、「社会の内で生きる以上、社会が求めるルールに従わねばならない」という答え方があるだろう。ならば、「失業」して社会からはじきとばされようとしている少女は、人を殺しても良いのではないか? ロゼッタが置かれる境遇は、ここで殺人を犯せば、仕事にありつけるかもしれない、しかし、それは「殺人者」との烙印を押され、より痛烈な形で社会からほうり出される可能性がある、というディレンマである。逃げ場なし。ノー・フューチャー。と、いうかノー・トゥモロー。
ロゼッタは、ごくごく普通の少女だ。しかし、「失業」によって社会と関わりがなくなってしまうことの不幸を知っているから、突然の解雇に猛然と抵抗する。異常なまでに「失業」を怖れるロゼッタ。視点は冷静であるが、彼女がくぐってきた修羅場の数々を想像させて余りあるものだ。
全編を通じ、手持ちカメラで、ロゼッタの上半身だけをとらえようとする。常に中心にはロゼッタが存在し、他の登場人物は、カメラがロゼッタをとらえ損なった瞬間にだけ存在する。カメラは常に不安定であり、視界の狭さは、そのままロゼッタが置かれた逃げ場のなさ、世界の狭さを表現している。スーパークール。
カンヌ映画祭でグランプリを取ったとき、ブーイングされた、ということだが、お前ら何様のつもりじゃい。カンヌに集う紳士淑女には理解不可能な世界なのか。グランプリに選んだ審査委員長、デビッド・クローネンバーグは偉い。
BABA Original: 2000-Jun-05;
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