バレット・バレエ
『双生児』の公開の記憶も新しい塚本晋也監督の新作が早くもロードショー! とはいっても実は『双生児』よりも先に製作されていたもので、海外の映画祭を回りに回って、半ば逆輸入のようなカタチで日本公開と相成ったわけです。『双生児』では江戸川乱歩を原作に、しかもメジャー資本の下、壮大なる異空間を展開してきた塚本監督でありましたが、果たして本作はいかがなものでしょうか。
舞台は、たぶん塚本監督が拘っているだろうと思われる、東京。恋人の突然の拳銃自殺により、当惑し混乱を起こしてしまう男と、死というものに魅入られたかのような少女を中心に物語は進みます。男は、恋人の自殺の原因を、若しくはその時の恋人の心象を探ろうとするかの如く、ひたすら拳銃を手に入れようと奔走する。時には滑稽に思えるほどに本当によく走る! カメラは、時には彼の後を追うように、時には彼を追いつめるかのように変幻自在に動き回る。塚本監督の真骨頂ですね。
こういった手管は、『鉄男』から変わっていない。仰々しいように思えた『双生児』でさえもそうだと、僕は断言する。息苦しいのだ。登場人物の息づかいが、心臓の鼓動が聞こえてくると言うよりは、自分のものとシンクロしそうになる。しかしそれは完全には一致しない。微妙にずれたその足早なテンポが見るものをどうしようもないほどの袋小路に追い込もうとする。これは好みの分かれるところだろうと思う。そしてモノクロームの映像は、常に濃密な影を生み出すものと思っていたが、妙にこの映画は淡い、しかし印象的な影を提示していく。僕の気のせいだろうか。
主人公の男はその拳銃探しの道中で、以前に絡まれ、さんざん袋叩きにされた不良グループの少女と再会し、そして拳銃という死のメタファーを軸にしながら徐々にその少女に惹かれていく。少女は死というものに惹かれていきながらも、その一線をどうしても越えることが出来ない。
物語は猛スピードで終末へと向かっていく。塚本映画ではいつものことだ。塚本監督はある物を通して二人の人物をシンクロさせていくことが多い。『鉄男』の[鉄]だったり、『東京フィスト』の[拳]だったり、『双生児』の[家]であったり、『妖怪ハンター・ヒルコ』の[学校]だったり、その拘り方は尋常じゃない。
そして今回は[拳銃]であるわけです。そしてその銃口の向かうところには死がある。死というものは全ての結末であり、我々みんなが向かっているところのものであるのですが、そうすると明日は死への一歩であり、未来こそは死そのものであったりするわけですね。ところが映画の結末は決してそこで終わるわけではない。主人公二人はバラバラな方向に向かって走ってゆくのですが、地球は丸いので、いつかは同じところに行き着くでしょう。すなわち死です。その走っている光景は、未来に向かって走っているようでもあり、来るべき死に追い立てられているようにも見えます。
捉え方は様々にあるでしょうが、逃れられないものへの、むしろ積極的で能動的な働きかけみたいなものが中心にあるような気がします。単純な映画に見せかけて、更に単純に輪をかけたこの僕にここまで深読みさせるこの映画のことを、僕はやっぱり気に入ってしまったようなのです。
余談ですが、僕は塚本監督に 2 度ほどお会いしたことがあり、話をしたこともあるのですが(たぶん、先方は覚えていないでしょうが)大変腰の低い、いわゆるとてもいい人だったのが印象に残っています。僕が十代の頃周りにいたパンクロッカーたちも、普段はとても腰の低い人が多かったのを覚えています。『双生児』という一種の大作をふまえたうえで、何ともストレートなパンクフィルムを届けてくれたなというのが最終的に心に残った印象でした。みなみ会館で上映中です。
kawakita Original: 2000-Apr-23;
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