歴史とは暗記物ではない
[憂国]
ウメドン来店。色々と話してゐる最中に、ウメドンが源義経を知らないことが判明。驚愕する。いや、名前は知つてゐた、一応。が、どのやうな人なのか、何をした人なのか、最後はどうなつたのか、といふ事を全く知らなかつた。多分、源義経は日本で最も人気のある歴史上の人物のはずである。少なくとも、ベスト3に入るだらう。私は、源義経を知らない日本人が存在するなんて信じられない! と、叫んだのだが、ウメドンは「オレ、日本人ぢやないんです」と冗談めかして答へるのみ。うーむ。
いや、さうは言つたものの、実はそれほど私は驚いてゐなかつたのだ。だつて、最近はこんなんばつか。その昔、オイシンが『2001年宇宙の旅』を知らずにデザイナーを名乗つてゐたことに驚愕した頃が懐かしい…。もう、常識もクソもないな。
このウメドンとの問答中、ウメドンは何度も、自分は理系だから歴史みたいな暗記物は不得手、といふ言ひ訳をしたのだけれど、ここに、病巣の一つはあると思はれる。歴史とは暗記物ではない。歴史とは、鏡である。実際、「増鏡」とか「大鏡」とか云ふだらう。己をそこに映し、自らの生き方・在り方などを見つめ直して、己を律し、生きる際の指針にする、それが歴史である。だから源義経なら、その天才性、それ故の独断専行・驕慢、その結果としての悲劇、といふ人生から様々なことを学ぶ、それが歴史を学ぶといふ事だ。自分に何の関係もない、なんか昔の出来事を覚える、と考へるから、つまり“暗記物”と考へるから、面白くないし、全く身につかないのだ。
ま、この問題は、教へる側にもある。そもそも愛国教育、といふか、日本人としてのアイデンティティ・誇りを教へる、といふ基本姿勢がなければ、歴史教育なんて出来る訳がないのだ。誇り無き国民は滅びる、と小室直樹は言つた。自分が自分であることを誇る、さういふ奴が最後に残る、とKダブ・シャインは言つた。ま、さういふ事だ。ヒップホップが好きなら、その精神で歴史を学び直してくれ、ウメドン。ヒップホップの精神の一つは、歴史の尊重(先人へのリスペクト)なのだから。
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