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Text by 小川顕太郎
2006年04月23日(Sun)

ヒストリー・オブ・バイオレンス
映画

 MOVIXにて映画『ヒストリー・オブ・バイオレンス』デビット・クローネンバーグ監督を観る。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、と聞けば、“暴力の歴史”に関する映画か、と思ひがちだが、実は“暴力の履歴”と言つた意味の映画であつた。田舎で善良に普通に暮らす男が、実は凄まじい“暴力の履歴”を隠し持つてゐた、といつた内容の映画。

 クローネンバーグは、この映画で暴力の様を実に冷徹に描く。過剰に盛り上げる事もなく、淡々と、鼻を潰せばこのやうに血が飛び散る、顎を銃で撃ち抜けばこのやうになる、といつた様子を描き続ける。人を傷つけるとは、人を殺すとはどういふ事なのか。が、やはりそんな中で浮かび上がつてくるのが、“暴力の履歴”こそが暴力的なのだ、といふ事実である。平凡で善良だと信じてゐた夫が、父親が、実は昔はマフィアの殺し屋だつた、と分かつた時、家族はどうなるのか。不信感と嫌悪感で、家族は崩壊の危機に瀕す。暴力的に、彼らの平和は壊されさうになる。果たして彼を、今まで通り受け入れることができるのか。映画のラストは、露骨な問ひかけで終はつてゐる。

 ある意味、これは非常にアメリカ的な映画であると感じた。アメリカとは、原住民を殺戮し、その土地を奪つた上に成立した、凄まじい“暴力の履歴”を持つた国だからである。アメリカの上には、常に“ヒストリー・オブ・バイオレンス”が刻印されてゐる。果たしてアメリカ国民は、自国の“ヒストリー・オブ・バイオレンス”を受け入れる事ができるのか。

 ッて、私の考へによれば、これは受け入れるしかないだらう。たとへどのやうなものであらうと、自国の歴史(自分たちの過去)は受け入れるしかない。否定したつて仕方がない、と思ふ。むしろ、暴力とは無縁の平和、平凡、善良、などあり得ない、と自覚する事が肝要だらう。そもそも、“ヒストリー・オブ・バイオレンス”に無自覚であつた頃の主人公一家の日常の、なんとグロテスクな事よ!(夫婦のコスプレプレイ!)その様は、ほとんど観客に対する暴力である。ホント、クローネンバーグは暴力を克明に描くよなァ。

 考へてみれば、現代ほどマスメディアから“あからさまな暴力の痕跡”が消し去られてゐる時代はないのかもしれない。そしてその事(暴力の痕跡の隠蔽)によつて、マスメディア自体が、とんでもなく暴力化してゐる。それに対する闘ひとして、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』はある。ババーン! …が、たつたの2週間で上映は打ち切られてしまひ、その痕跡は消し去られてしまふのであつた。

 うーむ、マス強し!(マスも立派な暴力だ)

公式サイト:
http://www.hov.jp/

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