フォー・ブラザーズ
[映画]
神戸シネ・フェニックスにて『フォー・ブラザーズ』(ジョン・シングルトン監督)を観る。京都で観られないのなら神戸でだ! と、本日は神戸に用事があつたので、強引にその用事の前に映画館に寄つたのである。全く、この映画を観ずにして年が越せるかよ! と、意気込んで行つた訳であるが、映画はこの私の意気込みと期待を軽く上回る出来栄え。平成17年の最後を飾るに相応しい傑作であつた。
さて、ジョン・シングルトンは皆も知る通り、ブラックムービーを代表する映画監督。現実世界においても、映画の世界においても虐げられ、差別されてゐる黒人たちの誇りと美意識と存在を描く、といふのがブラックムービーであるが、その時に要となるのがブラザー・シスターの絆である。虐げられ、差別されてゐる者たちは、家族や兄弟・姉妹の絆で固く結束する。が、ジョン・シングルトンが映画を撮り始めた90年代初頭には、すでにこのブラザー・シスターの絆が単純に成り立たなくなつてゐた。それは資本の論理の流入により、黒人共同体が崩壊しかかつてゐたからである。むろん、この事により、黒人の中でも金持ちになつて上流社会へと昇つていく人間が出始めた訳だが、大半の層は逆にさらなる貧困化へと向かつた。貧富の差が広がるのは資本制の必然。そのため、貧困化した上に共同体まで崩れたゲットーでは、黒人同士による争ひが激化、ドラッグと銃が飛び交ふ荒廃した世界が展開し、問題化してゐたのである。ジョン・シングルトンは、そんなゲットーライフにおける若者とギャングの問題を描いた『ボーイズ・ン・ザ・フッド』でデビュー、その後着実にキャリアを積んでいき、思考/試行を重ね、そしてある種の到達点に至つたのではないか、と思はれるのが今回の『フォー・ブラザーズ』である!
まづ、『フォー・ブラザーズ』とは、文字通り4人の兄弟、といふ意味だが、この4人兄弟は黒人2人に白人2人の兄弟なのである。なんでそんな事が? といふ疑問に答へると、ここにマーサ・エブリンといふ慈母のごとき女性がゐて、親に捨てられた子どもたちを引き取つては育て、養子に出す、といふ事を続けてゐたのだが、あまりの非行振りにどうしても貰ひ手がつかず、仕方なく(?)自分のところで大人になるまで育てたのがこの4人、といふ訳なのである。つまりは最下層(貧乏・捨て子)の中の最下層(不良)といふ強い絆で結ばれた兄弟。さう、今や人種による差別だけが問題なのではない、階層による差別こそが最大の問題と化してゐるのである。その事を、ジョン・シングルトンは鋭く掴みだし、提示する。この視点は映画の随所に見られ、例へば敵方のギャング組織内においても、専制君主として君臨し横暴のかぎりを尽くすボスと、それに屈辱にまみれながら耐へる子分、といふ図が、露骨なまでに描かれる。ボスと子分、主人と従僕、金持ちと貧乏人、資本家と労働者、大組織と個人……この対立こそが現代アメリカの、そして実は日本においても、最大の問題点なのである。『フォー・ブラザーズ』は、この事を容赦なく描く映画なのだ。
さて、一方、『フォー・ブラザーズ』はクライムアクションムービーとして、娯楽作品としても最高である。確かに昨今のハリウッドアクション映画のやうな、大袈裟なまでの派手なアクションシーンはない。が、そんなハリウッド映画より何倍も激しいアクションが満載なのだ。これはつまり、上記のやうなボスと子分、金持ちと貧乏人、大組織と個人…の対立を容赦なく描いてゐるからで、対立する両者の間に激しいアクションの火花が飛び散つてゐるのである。さらに舞台は冬のデトロイト。湖は凍り、雪は吹き荒れる極寒の中、熱く滾つた男たちのドラマが展開される、といふこの対立! この両者の対比・激突が、『フォー・ブラザーズ』を一級のアクション映画にしてゐるのであつた。
もちろん音楽はモータウン満載で最高。震へるやうなカッコイイシーンに洒落た機知にニヤリとするシーン、茫然と涙するシーンなど、満足度120%。もう今年はこれで映画を観なくていいです。
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Comments
投稿者 藤原欽也 : 2005年12月05日 16:41
02年の「被害者の人権」に注意しますが被疑者、被告人イコール
加害者ではありません。だから裁判所が最初から事件を前提、設定して被害者傍聴席を用意することは本来は推定無罪原則違反です。
松本サリン事件当初に事実上被疑者扱いされた河野義行さんは
被害者のことを考えて謝罪しなくてはいけないのでしょうか。
悲劇的なことに松本サリン事件遺族の方々と河野さんは連絡を取り合って被害者救済に立ち上がることができないのです。遺族の方々
はマスコミに影響されて河野さんを批判したからカルト教団が犯人
だと分かってもです。あくまでも判決が出るまでは推定無罪です。
早とちりは危険です。失礼を。
電脳討議場 藤原欽也
投稿者 店主 : 2005年12月06日 00:28
藤原欽也さん こんにちは!
なるほど、藤原さんは2002年3月15日の私の日記「被害者の人権」についてコメントされてゐるのですね。確かに私の日記では、被疑者・被告=加害者、と、とられかねない記述がなされてゐますね。これはイカン!・・・が、よく読めば、被疑者・被告=加害者、などと私が書いてゐない事が分かつて貰へると思ふのですが。
といふか、私の書いてゐるのは、被告=加害者、の場合についてなのです。などと書けば、「あくまで判決が出るまでは推定無罪です」と書かれてゐる藤原さんに怒られるかもしれませんが、私は、判決が出るまでもなく被告=加害者の場合も往々にしてあると思ふのですね。もちろん、被告が「私はやつてゐない!」と主張してゐる場合は推定無罪なのは当然ですが、被告も周りもみんな事件そのものに関しては認めてゐて(被告自身も自分が加害者である事を認めてゐて)、ただその量刑について争ふ、といふ場合も多いのではないでせうか。その場合にも、あくまで判決が出るまで推定無罪、と言つたり、被害者傍聴席を用意するのは推定無罪原則違反、などと言つたりするのは変だ、と思ふのですね。
また、私の文章の論旨は、被害者があまりに踏みにじられてゐる、といふものですから、被告が本当に加害者か否か、といふのは別問題になる訳です。とはいへ、それ故私のこの点に関する言葉遣ひがいい加減で、結果として誤解を招きやすい、といふ藤原さんの指摘は全くその通りです。ご指摘感謝いたします。
ちなみに、河野義行さんは「被害者」だと思ひます。冤罪だつた訳ですから。だから加害者の人たち(マスコミとか)が、河野さんに謝るべきだと思ひます。