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Text by 小川顕太郎
2005年12月08日(Thu)

俳チェン4回目
俳句

 俳句チェンバー4回目。前回から俳チェンでは、みんなの作つてきた句を紙に書いて壁に貼り、自分の良いと思はれる句を三つ選んで投票し、順位を決める、といふ形式をとつてゐる。

 で、今回の1等はなんとハッシー! おめでたうー、パチパチパチ…となつた訳だが、実を言ふと、私はハッシーの句はあまり良いと思はなかつたのだ。そもそも私は、芸術と民主主義は両立しないと思つてゐるので、かういつた形で選ばれた順位にあまり重きをおいてゐない。だから、一応の順位発表が終はつた後におもむろに手を挙げて、私個人の意見を言へば選ばれた句はどれも良くない、一番良いのは*番、次は*番…と、勝手に自分の順位づけを発表してみんなに嫌がられてゐるのだけれど、ま、憎まれ役がゐた方が会は盛り上がるでせう。

 で、問題のハッシーの句だが

茶の湯気の向こうに見える雪蛍

 といふものだ。どうですか? 改めてここに書き写してみて、やはり良くない、と私は思ふ。そもそも、これ、俳句になつてゐるかどうかも微妙だ。ハッシーの説明によると、これは仕事である家に行つた時に、そこの家で出してくれた(置いてあつた?)お茶の湯気がワーとたつてゐる向こうに雪蛍が見え、ああ、これを俳句にしたらいいな、と思つて作つた、といふ。要するに、「茶の湯気の向こうに雪蛍が見える」情景を詠もうとして、その「茶の湯気の向こうに雪蛍が見える」といふ事実を、正確にはハッシーの頭の中にそのやうな文章として認識されてゐる事実を、単に575の形式に言ひ換へただけなのではないか。それは、俳句ではない。他の言葉で言ふと、ハッシーのは自分が良いと思つた情景を、単に説明してゐるだけなのだ。俳句においては、説明は決して(?)してはならない。ただでさへ575の17文字で、文字数が少ないのだ。説明なんかしてゐる余裕はない。ズバッと、本質を切り取つてこなければならない。それが、俳句である。

 と、まァ、なんか色々と偉さうな事を言ひましたが、別にハッシーの句が全くダメだ! と言つてゐる訳ではないのですよ。なんと言つても、一番多くの票を集めた訳で、それにはやはりそれなりの理由があると思はれる。それは、多分「茶の湯気」と「雪蛍」といふ言葉の取り合はせだらう。私も、この取り合はせはなかなか良いと思ふ。ハッシーのセンスの良さを表してゐる。さすがお洒落大魔王ハッシー。それから、ハッシーが自作自解で、「実は真ん中の“向こうに見える”といふ所が気にくはなくて、色々考へたけれど、他に何も浮かばなかつたから仕方なくそのままにした」と言つてゐたのも注目に価する。ハッシー、自分の句のダメなところがちやんと分かつてゐるぢやないか! 凄いな。そのうちハッシーは、俳チェン史上に残る傑作句を詠むかもしれない。

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