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Text by 小川顕太郎
2005年07月11日(Mon)

神父と牧師
映画

 先日「『ミリオンダラー・ベイビー』について」「続・『ミリオンダラー・ベイビー』について」で、なにげなく“牧師”と書いたけれど、あれ、“神父”だつたんぢやないのかなー、といふ事を今日は書く。

 もちろん、“牧師”ならプロテスタントで、“神父”ならカソリックだ。イーストウッド(の役)はどうやらアイルランド人といふ設定だつたやうなので、となればまづ、カソリックだらう。さういへば教会の中に懺悔室があつたやうな気が…もしプロテスタントの教会ならないはず。といふ事は…などといふ事を、実を言へばあれこれ考へて書いた訳ではない。あの日記を書いた時は、カソリックもプロテスタントも頭になく、漠然と“キリスト教”といふことで書いた。しかし、やはりカソリックとプロテスタントはちやんと区別して書くべきだつたな。分析結果も違つてくるだらうし(あの日記に関しては、あまり変はらないと思ふけど)。普段からカソリックとプロテスタントはちやんと区別すること、と考へてゐるのだが、頭で分かつてゐてもちつとも身体では分かつてゐない、といふ証拠だ。日記は、限られた時間でサッと書き流して管理人さんの所に送るので、あまり深く考へることがなく、無意識が強く出てしまふ。キリスト教に関する基礎知識は、ハリウッド映画を観る時には必須だ! などと普段から言つてゐるくせに、お粗末な次第である。それにしても、なぜ無意識にしても“牧師”といふ語を選んだのかといふと、やはりそれはあの人が牧師ッぽく思へたからだらう。もちろん、それは私の偏見において、といふ意味だが、私の中ではああいふ“先生ッぽい”人は牧師、といふイメージがあるのであつた。実際は、どうなのかな?

 ところで、私は自分の書いた日記を読み返すことがほとんどない。ネット上に乗つた時もほとんど読まないのだが、今回はたまたま読者の方から「参考になりました」といふメールが来たので、ええ! いい加減なこと書いてゐなかつたかなァ? と不安になつたので読み返し、この問題点を見つけた、といふ次第だ。ううむ、もつと他の日記も読み返せば、このやうな間違ひ・勘違ひ・書き間違ひ・矛盾、などがザクザク出てくるんぢやないだらうか。…ま、間違ひも含めて書き飛ばしてゐるのが日記、といふことで。などと、開き直つてこれを書き終へる。

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