狂牛病論争続報
雑誌『わしズム』14号にて、福岡伸一が「狂牛病、その代償を払うのは誰か」といふ評論を書いてゐる。内容としては、「わしズム」12号の「狂牛病すぐそこの恐怖」とほぼ同様で、新たな論点はほとんどない。つまり私の疑問には答へてゐないので(当たり前ですが)、特に得る所はなかつた。が、ひとつだけ、新たな論理展開をしてゐて、これがどうにも珍妙に思へるので、その事について述べやうと思ふ。
日本において牛の全頭検査を廃止の方向に持つていかうとしてゐる食品安全委員会は、その根拠をリスク論においてゐる。リスク論とは、どのやうな事態においてもリスクゼロといふ事はあり得ないので、リスクとベネフィット(利益)を比較したり、他のリスクと比較したりしてそのリスクの危険度を考量し、よりリスクの少ない対策をとる、といふ考へ方だ。これは、オール or ナッシングの思考に流されやすい日本人には馴染みにくい考へ方のやうで、それ故にリスク論を根付かせやうとしてゐる中西準子らは苦労してゐるのだらうが、どうも福岡伸一もそんな日本人のひとりのやうな気がする。それは、もし日本で狂牛病が続発した場合「誰がどのような責任をとり、どのような対策をとりうるだろうか」といふ、脅迫的な言辞を書いてゐるところから察せられる。もちろん、さうなれば誰かが責任をとり、しかるべき対策をとれば良いのだが、オール or ナッシングの思考をする人は、そんな事で納得しない。誰がどんな対策・責任をとらうと、事故・失敗が起こつてしまへばもう絶対にダメだとばかりに無限責任を追及するのだ。だから誰も責任をとりたがらないし、事前にまともな対策がとられる事もない。そして規制ばかりが増え、そんな規制は極端だとみんな心の底では思つてゐるから破れる時には破ろうとし、結果としてルールそのものも建前と化す。これが日本の「無責任体制」といふ奴だらう。
それはともかく、福岡伸一もそんな単純ではないから、一応この論考ではリスク論を認めてみせる。が、狂牛病問題に関してはリスク論は当てはまらない、と論理展開するのだ。それは、狂牛病においてはベネフィットを得るのは安い牛肉を作るために無茶をした酪農家や大企業、それらを規制なしで流通させやうとする政府・行政の人間であり、消費者にはリスクのみが垂れ流されるから、ベネフィットとリスクが不均衡で不公平であり、リスク論は成り立たない、といふものだ。しかし、これはをかしくないか? 消費者にはリスクのみがもたらされるのではない。牛肉が安くで食べられる、といふベネフィットがもたらされてゐるはずだ。そもそも牛肉を安くで食べたい、などといふ欲望が無茶なのだ。そんな無茶な欲望を通すのなら、それなりのリスクがついて来るのは仕方がないだらう。狂牛病は、消費者の際限ない欲望が産み出した、とも言へる。企業や行政は、その消費者の無茶な要求に応へやうとしたに過ぎない、と考へる事も(極端ながら)出来るのだ。この福岡伸一の論理展開には、(悪辣な)大企業・政府 vs(無辜の)消費者・庶民といふ古典左翼的な図式が透かし見えて、苦笑してしまつた。
ところで、狂牛病問題では必ず吉野家の牛丼の話が出て、異常事態感を煽るけれども、牛丼解禁日に吉野家に殺到したり、吉野家の牛丼再開に署名するやうな連中の事は放つておけばよいではないか。そもそも狂牛病の問題が出る以前から、吉野家の牛丼=ジャンクフード=安いけれど身体に良くない、といふのは常識だらう。5000円で売つてゐるヴィトンのバックは贋物に決まつてゐるだらう? あまりにも安い物件には何かあるんぢやないか、と疑ふだらう? では、1杯280円の牛丼が、まともな牛肉を使つてゐる訳ないぢやないか。それでも食べたい奴は食べる。それは彼らの勝手で、誰にも止められない。別にそれでいいぢやないか。
とにかく、リスク論におけるリスク計算の仕方が決定的に間違つてゐる、といふのでもない限り、全頭検査維持派の勝利は難しいと思はれます。
小川顕太郎 Original: 2005-Apr-1;- Amazon.co.jpで関連商品を探す