タカハシくん帰国
タカハシくん来店。無事にイタリアから帰つてきたやうだ。初めての海外旅行を経験したタカハシくんは、そこはかとなく人間的成長を感じさせ、といふ事は全くなく、1週間前に「明日からイタリアに行つてきます」と言つた時となんら変はる所のない人間であつた。本当にこの1週間の間にイタリアに行つてゐたのかどうかも怪しまれる程だ。
「あ、これお土産です」と、続々とお土産がカバンから出てきた。うむ、これだけお土産があれば、別にタカハシくんが本当にイタリアに行つてゐたかどうかは問題ではない。何故かお土産がドイツ産のチョコレート(箱一面にドイツ語が書いてある)だが一向に構はない。で、どうだつた、イタリア?
「面白かつたです! でも、言葉はちつとも通じませんでした。ことあるごとに話しかけたんですけど、全く何を言つてゐるのか分かりませんでした…」
まァ、さうだらうな。NHKのイタリア語講座を半年やつただけではなァ。でも、それで向かうの人にそんなに話しかけたなんて、結構強い心臓だな。私ならよーせん。
「でも、まァ、最後に『チャオ!』ッて言へばいいし」
うむ、案外太いな、タカハシくん。それで、どこが面白かつた?
「フィレンツェです。ワインの店や食糧店が多くて、すごく興味深かつたんです。レストランも良かつたし。ローマは遺跡が多くて、それは面白かつたです。『ローマの休日』の場所はだいたい廻りました。シエナはとてもキレイで、ヴェネチアは臭かつたです。」
ふむ、何か、失敗談はないのか?
「いや…別に。メッチャ用心してましたし。添乗員さんも、何故かボクのことばかり心配して、いつでもホテルに電話をして下さい! ッて、しつこく言はれてました。」
うーむ、その添乗員さんの気持ちは痛いほど分かるが、それにしても、何の失敗談もないとは、旅としては失敗だな。
「え! さうなんですか」
うむ。旅とは失敗をしに行くことだからな。恥をかいてくる、といふのが基本だ。「旅の恥はかきすぎ」といふ言葉もあるくらゐだし。さうか、それで人間的な成長が感じられないんだ。人間は失敗から学び、成長するものだから。
「実は…ひとつだけ大失敗をしたんです」
ほォ! それはどんな?
「ピサの斜塔に上つた時に、一寸はしゃぎすぎて……下に落ッこちたんです!」
ええ!! で、ど、どうなつたんだ?
「ええ…ケンタロウさんとの約束を果たさなければ、と、かうやつてやつて来た訳です…」
と、言つた途端に、タカハシくんの姿はかき消すやうに無くなつた。後には、お土産の数々がカウンターの上に残つてゐるばかり。…
もちろん、ウソですよ、こんな話。
小川顕太郎 Original: 2005-Mar-19;