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 Diary 2003・1月18日(SAT.)

伊豆の踊子

 京都文化博物館に『伊豆の踊子』(昭和 8 年・五所平之助監督)を観に行く。言はずとしれた川端康成の小説の映画化作品であり、この後さまざまなヒロイン役を得て何度も映画化された名作の、最初の映画化作品である。ヒロインは田中絹代。サイレント・モノクロ作品であり 123 分の長尺、これはちよつとキツイかな? とも思つたが、映画の世界に入り込むまでの最初の 5 分ほどが、なんとなく居心地が悪かつただけで、あとは何も気にならなかつた。笑ふところで笑ひ、手に汗を握る所で握り、緊張する所で緊張し、充分に作品を楽しんだ。123 分はアッといふ間であつた。

 映画は、トーキーに移行する事によつてその生命を断たれた、といふ意見が根強くあるけれども、このやうなサイレント作品を観ると、さうかもしれない、と思つてしまう。音など要らない、色も要らない、ましてや CG など。映画の持つ原初的な魅力に触れて、私はいささか頭がクラクラとした。風邪かな?

 ところでこの『伊豆の踊子』であるが、川端の原作と全く内容が違う。プロットだけ借りた、別作品と言つてよいだらう。川端の原作は、名作といはれるだけあつてなかなか凄い作品であり、私も大好きなのだが、その要諦は、徹底的に情を欠いてゐる事にある。と私は思ふ。ほとんど人非人のやうな非情な川端の視線が、鋭く「詩」を切り取つてゐること。主人公が被差別民である踊子たちを差別しないのは、もちろん人間はすべて平等だと思つてゐるからだが、それは、人間なんてみんな石ころのやうだと見なす「平等」なのだ。全ての人間に対して、川端は「情」を持たない。「人間」に価値を認めない。戦慄すべき非情さであり、それが川端作品の凄さなのだ。

 ところが、映画は完全に人情ものの世界となつてゐる。川端文学の対極にある世界だ。まア、それはそれでよい。別物として観れば、面白かつたのだから。では、これ以後に作られ続けた他の『伊豆の踊子』は、どうなのだらう? 川端作品に忠実な映画化はあるのだらうか? 俄然、他の『伊豆の踊子』も観たくなつてしまつた。

 今日も、大地義行さんに関する問ひ合わせが、関テレなど何カ所かからあつた。そんな、何年か前に一度来ただけのお客さんの事をきかれても、答ヘやうがないぢやないか。電話をかける前に、もう少しちやんと「店主の日記」を読めば、そんな事は分かるはず。日垣隆なら、過去ログ全てに目を通してから、電話をかけると思うぞ。ま、私は日記のネタになるから、いいんですけどね。

小川顕太郎 Original: 2003;