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 Diary 2003・4月23日(TUE.)

餓死

 雑誌「新潮 45」5 月号を読む。そこに、「平成『餓死』事件ファイル」(by 豊田正義)といふレポートが載つてゐて、それによると現在の日本では、年間約 70 人ほどの人々が餓死してゐるといふ。いくら長引く不況に喘いでゐるとはいへ、今の日本で餓死とは…と、不思議に思ふのもさることながら、私にはさらに強くこのレポートに引きつけられる理由があつた。それは、私の友人のひとりも、その昔、餓死してしまつたからだ。

 それは今から 10 年以上も前の話だが、私にはどうにも、彼がなぜ餓死したのかが分からなかつた。彼は非常によく勉強ができ、東大に入学したのだが、1 年も経たないうちに、下宿先で餓死してしまつた。当時、友人たちから聞かされた理由は、小さい頃から勉強ばかりして、当たり前の生活が一人前にできなかつたのに、いきなり一人暮らしをして、うまく食事を摂ることができずに餓死した、といふものだ。ろくに食事も摂らず、勉強ばかりして死んだ、といふ話も聞いた。しかし、私には、俄にこの話を信ぢることができなかつた。そのやうな事があり得るだらうか?

 このレポートによると、餓死する人のほとんどは在宅者である。つまり、ホームレスで餓死する人はあまりゐない、といふことだ。これは、今の日本にはどこにでも残飯が溢れてゐる、といふ理由もあるし、ホームレスの人が道端で弱つて倒れてゐると、たいてい保護される、といふ理由もある。餓死する人のほとんどは、孤独に部屋の中で死んでゐる。大抵は生きる気力をなくし、何事も面倒くさくなつてジッとしてゐるうちに身体が衰弱し、本当に動けなくなつてそのまま餓死するのだといふ。

 私はこれを読んで、友人の餓死が、なんとなく納得できたやうな気がした。確かに、そのやうなことは十分あり得る、と思ふ。私も、たまに生きる気力をなくす、と言へば大袈裟かもしれないが、一種の「虚無」のやうなモノに突き当たり、恐ろしい無気力に捉へられることがあるからだ。かういふ時だな、彼岸が見へるのは。私が、北野武の映画に限りなく魅せられるのは、武の映画には常にこの「虚無」があるからかもしれない。

 それはともかく、そのやうな無気力な気分に捉へられた(捉へられかけた?)時には、私は音楽を聴くやうにしてきた。今なら、断然にヒップホップだが、ソウルや R & B でもいい。すると、俄然、生きる気力が沸いてくるのだ。エネルギーに満ちてくる、と言つてもよい。よく、音楽では世界を変へられない、とか、音楽は別になくても生きていく上には差し支へがない、といふ意見をきくが、そしてさういふ意見は大抵、それでも私は音楽を愛する、といふやうに続くのだが、私はさういふ意見を聞きながら、果たしてさうなのだらうか? といつも内心で呟いてきた。少なくとも、私は音楽がなかつたら、もつと早く死んでゐたのではないだらうか。そして、案外音楽は多くの人々の命を救つてきたのではないだらうか。

 ヒップホップの重要なテーマのひとつは、生き抜いてゆく、といふものだ。これが、エネルギー源なのだ。私は今日もヒップホップを聴く。エネルギーを補給する。俺は大丈夫生きてく生き抜いていく Like Dat Y'all 気にせず息巻いてく LIFE/LIVE  マチガイナイ、DABO にリスペクト。

 まあ、てな感じで。

小川顕太郎 Original:2003-Apr-25;