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 Diary 2001・6月13日(WED.)

そんなに**が好きなのか!

 若い人達のよく持つ悩み、月並みで平凡な悩みとして、「私はほんとうは何がしたいんだろう?」「私のほんとうに好きなものって何だろう?」というものがありますな。ははは。しかし私のような擦れっ枯らしに言わすと、「そんなものはない」んですな、これが。「ほんとうにやりたいこと」「ほんとうに好きなもの」がある人間なんて、そうそう居ないし、そういう人間はそもそもこんな悩みは持ちません。ただひたすら自分の好きなもの、自分のやりたい事にむかって突き進みます。そう! セシル・B ・ディメンテッド!! もうそんな人間は気狂いですな。社会不適応者ともいえる。なかなか大変ですよ、そんな人生も。でもセシル・B ・ディメンテッドがかっこよかったように、そういう人間はかっこいい、場合もあるんですね。特に映画や小説なんかだと。だから、そういうのに憧れて、ついつい自分も「ほんとうに好きなもの」「ほんとうにやりたい事」を持たなくちゃ、と思って悩むんですな。うーん。でもねえ、さっきも言ったように、そういう風に悩んだ時点で、その人にとっての「ほんとうに好きなもの」「ほんとうにやりたい事」なんて、ないんですよ。だから悩むだけ無駄。ありもしない答えを求めて時間を浪費するのはどうかと思いますよ。人更ねて少きことなし、時すべからく惜しむべし。ですよ。ははは。

 でも世の中には結構、自分の好きなものを持ち、自分のやりたい事をやっている人間がいるじゃないか、とおっしゃるんですね? いやねえ、そんなもの大半は後付けですよ。たまたま長く関わってしまったものとか、たまたまやってしまった事を、後から「もともと自分はこれが好きだったんだ(やりたかったんだ)」と自分自身に言い聞かせて納得させているだけですよ。いや、それが悪いというわけじゃあないんですよ。そうやって納まるところに納まる、というのが人間の知恵というもので、大いに尊重すべきものです。だいたい、「たまたま長く関わったもの」というのを、「自分のほんとうに好きなもの」の定義にすればいいわけですよ。え? いい加減ですって? そんな事ありませんよ。そもそも「ほんとう」という言葉がいい加減なんですよ。「ほんとう」って何や? どう定義し、どう証明するのか。

 果たしてセシル・B ・ディメンテッドは「ほんとう」に映画が好きだったのか? もしかしたら自転車の方が好きだったかもしれない。バカな事を言うなって? じゃあ、どうしてセシル・B ・ディメンテッドが「ほんとう」に映画が好きだったといえるのか? 映画のために誘拐をし、強盗をし、人を殺し、自分も死んだからか? そこまでやらないと「ほんとうに好き」とは言えないのか? 多分、そうなんですよ。でも、はっきりいってセシル・B ・ディメンテッドは気狂いです。そう、「ほんとうに好きなもの」「ほんとうにやりたい事」がある人間なんて気狂いなんですよー。気狂いがそうそう居るわけがない。居たら困る。だから「ほんとうに好きなもの」「ほんとうにやりたい事」がある人間なんてそうそう居ないんです。居たら困るよ、まったく。

 へ? 私ですか? 私も「ほんとうに好きなもの」「ほんとうにやりたい事」なんてないですよ。たまたまカフェをやっているだけだし、たまたまノーザンソウルが好きなだけです。でも「たまたま」だからと言って、いい加減ではありませんよ。今やっている事のほかに「ほんとう」がある、と思うからいい加減になるのです。「たまたま」というのは凄いことですよ。一期一会っつうか。年常に春ならず、酒を空しくすることなかれ。とまあ、そういう事ですね。

小川顕太郎 Original:2001-Jun-15;