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 Diary 2000・10月6日(FRI.)

大量に書く

 四方田犬彦が新著『けだものと私』を上梓したが、彼にとってこれは通算 70 冊目の単行本になるそうだ。書きも書いたり、といった感じだが、この本の中で四方田も言っているように、三島由紀夫や寺山修司、宇野鴻一郎などは、四方田と同じ年齢で四方田の 2 倍量の本を上梓していたのだ。凄い。この日記を書くのにヒーヒー言って苦しんでいる私なぞは、感心するのを通り越して呆れてしまう。

 昔の私は、多作より寡作の方がいいような気がしていた。なんというか、寡作の方が濃縮されていて良いと思っていたのだ。つまり多作になるとどうしても内容が薄くなる。あるいは、詰めが甘くなって良くない、と考えていたのだ。が、最近はちょっと違う考え方をするようになった。

 多作になれば内容が薄くなり、詰めが甘くなる、というのは間違いだろう。それはクリエイティブパワーが落ちているのに、無理をして書くからそうなるのだ。そういうのは、「多作」というより「乱作」と呼ぶべきだろう。クリエイティブパワーに満ちていれば、質の良い作品をジャンジャン書く事が可能のはずだ。器から水が溢れ出るように、次々と作品は産まれるはずなのだ。問題はこの「クリエイティブパワー」の持続である。

 如何にしてクリエイティブパワーを持続させるか。この問いに対して私は答えを持っていないが、敢えて答えるなら、悦びを持って世界と闘争すること、によってである。世界との闘争を辞めた時、クリエイティブパワーは枯渇するだろう。あるいは、クリエイティブパワーが枯渇すると、世界との闘争は不可能になるだろう。そうなれば、少なくとも筆は折るべきだし、大西巨人の小説の主人公のように、自ら命を絶っても構わないだろう。

 自己表現のために書く、などということは論外だが、書くために書く、というのも駄目なのだ。この日記もついつい「書くために書く」というのに流れがちだ。自戒せねばならない。悦びを持って世界と闘争すること! ううん、クリエイティブパワーが身体に満ちてきた、さあ、ドンドン大量に書くぞ! とか言いながら今日はこの辺で。

小川顕太郎 Original:2000-Oct-8;