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 Diary 2000・11月1日(WED.)

きれぎれ

 町田康の芥川賞受賞作『きれぎれ』を読む。芥川賞には政治的・商売的な意味合い以外なにもない、特に文学的意味はない、という事が露呈してしまってから随分たつし、町田康には辻仁成を売り出したのと同じ奴がバックについているので、辻仁成が芥川賞をとった時点で、町田康もそのうちとると可能から教えられていたにもかかわらず、やはり昔からの町田康=町田町蔵ファンの私としては、町田康の芥川賞受賞は感慨深かった。

 私が町蔵を聴き始めたのは高校生の時、町蔵が山崎春美と北田昌宏と「至福団」とかいうグループをやっていた頃のはずで、もしかしたら「絶望一直線」の頃かもしれないが、とにかく『どてらい奴ら』(←ホントは「奴」の字が違う)というカセットブックを聴き、そこに書かれてある町蔵の文章を読んだのが、最初期の私の町蔵体験という事になる。その頃から町蔵の言語感覚はずばぬけていると、その界隈では定説になっていて、芥川賞みたいなしょーもない賞は町蔵にでもくれてやったらちょっとは箔が付くやろ、芥川賞の方に、みたいな事を友人と語り合っていたのを覚えている。故に町蔵、もとい町田康の芥川賞受賞というのは、悪い冗談のように思える。実際そうなんじゃないか?

 もちろん、町田康は現在読むに価する小説を書く数少ない作家の一人だが、芥川賞なんぞというものの選考委員をやっているような輩に、町田康が読めるとは思えない。どうなっているんだ? と疑問に思っていたら、選考委員の大半が町田作品に否定的と聞いて納得した。中条省平の『仮性文芸時評』(「論座」10 月号)によれば、河野多恵子・村上龍・三浦哲朗・宮本輝が否定派で、田久保英夫・黒井千次が消極的擁護、石原慎太郎・池澤夏樹が絶賛、という事らしい。ちなみに日野啓三は老人ボケしていて、古井由吉だけがまともに小説が読めている様子。なるほどね。世の中には褒められるより貶される方が価値がある場合が往々にしてある。町田康の芥川賞受賞が、必ずしもバカに褒められた訳ではないと分かり、一安心。バカを不快にさせ、怒らせるのが、すぐれた文学の条件だろう。バカには貶されてなんぼだ。

 ところで『きれぎれ』だが、今までのスタイルを少し崩して、文体の実験を行った過渡期的な作品である、と読んだ。もちろん、中条省平も言っているように秀作。が、中条省平の解釈と私の解釈は大きくずれている。中条は、『きれぎれ』を究極の不条理小説と呼び、世界を不自由で理不尽で不完全だと糾弾してやまない作品だ、と断ずる。私は、『きれぎれ』はちっとも不条理小説だとは思わないし、世界を糾弾している訳でもないと思う。これはバカを撃つ作品なのだ。『きれぎれ』の主人公は「愚か」ではあるが、「バカ」ではない。現在のように、バカがチョウリョウバッコして腐臭を放っている時代では、愚に徹する事が、「きれぎれ」に徹する事が、バカを撃つ最良の方法である、とこの作品は示唆する。青空。きれぎれになって腐敗していて。

 本日は大雨。卯木の花も腐るやろ。

小川顕太郎 Original:2000-Nov-2;