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 Diary 2000・3月22日(WED.)

松本人志ショー

『松本人志ショー』阿部嘉昭(河出書房新社)を読了。帯に「初めての本格的松本人志論」と書いてあるが、論理にはさほど拘らずに、類推によって様々な事象を疑似等号で結んでいくというスタイルで、正に「論」というより「ショー」のような本。このようなスタイルの書き手としては、山口昌男や高山宏などが浮かぶが、うまくやらないとひどく退屈なものになってしまう危険がある。同じような事を延々と述べ立てているだけで全く「運動」を欠き、その「停滞」ぶりが「退屈」になるのだ。山口昌男には、どうもこのきらいがあるように思える。では、この本はどうか。あまりの杜撰な類推ぶりに苛立つところもあるが、総体としては面白く読めた、といった所か。

 現在のお笑い界の覇者・松本人志は、前代までの覇者・ビートたけしとは対照的だという。たけしの視線が全体把握的で、そのスタイルが積分的・蕩尽的であったのに対して、松本人志の視線は部分に執着し、スタイルは微分的・状況生成的だというのだ。つまり、たけしが西欧的なのに対し、松本人志は「アジア」的だという事だ。これは観客層の変化に対応するという。

 確かに言われてみれば思いあたるふしはある。私がテレビで「ひょうきん族」を観ていた 80 年代は、文化的には「いまだ西洋が上」という雰囲気だった。洋楽の地位は圧倒的に高く、西洋の最新思想を読んでいるのがかっこよかった。ヤンキーファッションをしているものは、それだけで土俗的な「下」の文化に属しているとみなされたものだ。彼等は無自覚でマッチョで自堕落だと馬鹿にされていた。

 それが 90 年代にはいり、洋楽の権威失墜と J ポップの隆盛、西洋の現代思想に対するコンプレックスの解消、ヤンキーの地位向上などが起こった。自意識過剰より無意識過剰が、脆弱さよりマッチョな力強さが、キチッとかっこよくキメルことよりもルーズに楽にしている方が、称揚されるようになったのだ。勿論これらは「実質」の話ではなく、全て「雰囲気=風潮」の話である。「自虐史観」の訂正を叫ぶナショナリストが幅をきかせ、世の中全体が保守化したのも 90 年代にはいってからだ。我々の上に被さっていた「西洋」的なるものが破け、「アジア」的なるものが噴出してきている。お笑いの世界でそれに対応していたのが、松本人志の覇権だったという訳だ。なかなかに面白い、と思う。

小川顕太郎 Original:2000-Mar-24;