頭脳演劇宣言
私の友人である可能涼介は「頭脳演劇」なる概念を掲げてここ 10 年程活動している。
「頭脳演劇」とは、可能の定義によると「上演不可能な演劇」「頭脳を劇場として行われる演劇」ということらしい。何度か説明されてもいまひとつ腑に落ちない私は、「戯曲の演劇からの独立」という事を云いたいのではないか、と勝手に解釈していた。私は特に演劇に興味がないので、可能の戯曲に対する執着・演劇というものに対する憎悪、そのねじくれた愛憎がよく分からないのだ。ただ「頭脳演劇」が、アルトーの「残酷演劇」を十分に意識したものであるのは分かるし、故に可能は「神の裁きとけりをつけるために」活動しているのであろう事は朧気ながら分かっていた。
演劇というジャンル、特に西洋発のそれは、キリスト教的な観念と不可分である。我々は「原罪」ゆえに「真の人生」を歩むことが出来ない。我々が歩んでいるのは「仮の人生」である。我々はみんな世界という劇場で演じられている演劇の登場人物に過ぎないのであって、「真の人生」は「彼岸」にある。だから現世で行われる演劇とは、贖罪なのである。といった観念。
アルトーはこういった観念を粉砕するために「残酷演劇」を提唱し、可能は「頭脳演劇」を提唱した。それは分かる。が、何故それが戯曲なのか。小説ではいけないのか。可能の言う「頭脳演劇」は、小説でも可能なように私には思えた。それで私はいまひとつ腑に落ちない気持ちのまま彼の活動を見守ってきたのであった。
本日、可能から電話があり、「頭脳演劇」の定義の変更が伝えられた。「頭脳演劇」とは、頭脳の中に書かれた戯曲を日常生活の中で演じることだ、というのだ。すでに「戯曲」という観念が放棄されている。というか、私はそこではたと膝を打ったのだが、可能にとって「戯曲」とは「倫理」のことだったのだ。可能のいう「頭脳の中に書かれた戯曲」というのは、カントのいう「我が内なる道徳律」というのと同じだろう。「頭脳演劇」とは、己の格律=戯曲に従って生きること。そしてこの格律=戯曲が、普遍的法則になるようにすることである。これもまた「神の裁きとけりをつける」ことであろう。「彼岸」などない。我々は「永遠回帰」を生きているのである。
これならば私にもかなり納得できる。でもそれならば別に「頭脳演劇」じゃなくてカントで十分なんじゃないの、と言われるかもしれない。いや、それは違う。カノウはカノウであり、カントはカントである。その差違は絶対だ。そして何より可能は私の友人である。また、不意打ちのように電話がかかってくる事だろう。
小川顕太郎 Original:2000-Jun-10;