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 Diary 2000・8月19日(SAT.)

映画史

 京都駅ビルのシアター 1200 に、ゴダールの『映画史』を観に行く。あの浅田彰が、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やエズラ・パウンドの『キャントーズ』に匹敵する、と言った作品である。蓮実重彦が、20 世紀が後世に誇れる何かがあるとしたらとりあえずはゴダールの『映画史』しかないと自信を持って言えるときが必ず来ると思う、と言ったその『映画史』である。『映画史』と言っておきながら「映画の歴史」を語ったものでは全くなく、それどころかそもそも「映画」であるのかどうかも疑わしいとんでもない作品。5 分・20 分・5 分と計 30 分の休憩をいれて 4 時間 30 分、関西初上陸。これを観ずして何を観ろというのか。

 ゴダール。ゴダール自身がまずもって素晴らしい。葉巻をくわえ、何かごにょごにょ言いながらタイプライターを打つゴダール。突如サンバイザーをかぶり、裸で、葉巻をくわえ、謎の物体を手に持ちながら、ごにょごにょ呟き続ける。ほとんど気狂いじいさんである。あるいはセルジュ・ダネーとの噛み合わない会話。凡庸だがごくまっとうな意見を述べ続けるダネーに対し、誇大妄想狂の戯言のようなセリフを口にし続けるゴダール。ある意味でこのゴダールこそが、この映画を体現している。正確さ・正しさ・誠実さ・まともさ等の下らなさ。映画の魅力とは、間違い・偽物・キチガイ・いい加減さ・胡散臭さにあるのではないか?

 人をバカにしているのかと思うぐらい、大袈裟でメランコリックな音楽の使い方。そこに字が現れる。「映画とは何か?」「なんでもない」思わず椅子からずり落ちそうになる。「映画は何を望むか?」「すべてを」わずかながら椅子から飛び上がった。「映画に何ができる?」「何かを」ひきつった笑いが口から漏れるのを防ぐ為に口を押さえるのに必死。「映画だけが」「映画だけが」「映画だけが」「映画だけが」「映画だけが」「映画だけが」「映画だけが」……もうたまらん。助けて。が、笑いに痙攣しているうちに、ふと圧倒的な感動に襲われている自分を発見する。

 パゾリーニの映画の引用が意外と多いのに驚く。パゾリーニが生きていた頃は、あれほどパゾリーニの悪口を言っていたくせに。ゴダールは死んだ人にやさしい、と気付く。トリュフォーやカサベテス、セルジュ・ダネーなど。ネオ・レアリズモ期のイタリア映画の礼賛は、いまやイタリアには「映画がなくなった」、イタリアの映画は死んだ、という強い確信のもとに行われているという。本当に嫌な奴だ。映画は、芸術は、フランスにしかないという、呆れるしかないフランス至上主義的主張。しかし、痴呆の老人が繰り出すこれほど魅惑的な妄言の数々を前にして、我々はいったいどうすれば良いというのか。とりあえずは、荘子に倣ってこれを妄聴するしかあるまい。

 ここまで一気に書いてきて、いくらでも後から後から言葉が出てくるのに気付いた。きりがないのでもう辞めるが、ここまで言葉を引き出せる、思考を活発化させるというのは、やはり並大抵の作品ではないと、たったいま痛感。ゴダールはこの 20 世紀末に決定的な作品を作ってしまい、我々はそれを観てしまったのだ。

 あ、最後にひとつだけ。今回の上映は「シアター 1200」で行われたのだけれど、これはこの映画に相応しい上映形態を、と望む RCS のサトウさんの尽力による。ホームグラウンドであるみなみ会館の設備では満足できず、「シアター 1200」を借り切って上映機器もこだわって取り揃えた。上映の前日ぎりぎりまで、ビデオイコライザーを導入するなど試行錯誤を繰り返したというが、おかげで素晴らしい上映状態だったと思う。これはサトウさんの快挙ではないか? とりあえず皆さん、サトウさんに拍手を。

小川顕太郎 Original:2000-Aug-21;