バレット・バレエ
みなみ会館に塚本晋也監督『バレット・バレエ』を観にいく。長年付き合った恋人に突然拳銃自殺をされた主人公は、彼女が死んでしまったということよりも、何故彼女が自殺をしたのか「自分には見当もつかない」という事に衝撃を受け、その原因を理解しようと奔走する。
自分では疑いもしなかった彼女との幸せな関係、高収入に支えられた安定したハイソな生活。しかしそれは本当に「幸せ」であり「安定」していたのか。一度疑問を抱き、走り出すと、現実は簡単に違った側面を見せはじめる。暴力が支配する野蛮なガキどもの世界。とはいえ、そこでもそれはもうひとつの「現実」に過ぎない。そこにもその「現実」を疑うもの達がいる。
ちさとは、常に死への誘惑に身を任せようとする。それは「死」というものによって「生=現実」を揺るがし、それによって抑圧されたものを明るみに出したい、知りたいからであろう。また、ちさとの恋人(らしき男)は、自分をかわいがってくれていたヤクザの息子を、手に入れた拳銃で殺す。それは、そのボクサーでもあるヤクザの息子の持つ、「現実」に対する確信の強さへの嫉妬、憎しみのせいだろう。自分達にとって「リアル」に感じられない「現実」に対する違和感と、その「現実」をなんら疑う事なく信じることによって、結果として抑圧者として振る舞う者達への「憎しみ」。これはフィクションを愛する者達に共通する、基本衝動ではないだろうか。謎を解きあかし、「現実」を変革するかと思われた「拳銃」も、結局は単なる「現実」のものに過ぎなかったと認識させられた主人公は、最後にちさとと別れ、それぞれの方角に歩み、走り去る。問いにはまだ答えは与えられていない。
この映画を観ていて、私はふと先日読み終えたばかりの『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹著を想起した。この小説も同じ様な構造をしている。長年暮らしてきた妻に、突然蒸発された主人公は、何故彼女が蒸発したのか「自分には見当もつかない」ことに驚き、まずその理由を分かろうと、そして妻を自分の元に連れ戻そうと、様々な試行錯誤を重ねるのだ。
この小説の主人公は、『バレット・バレエ』の主人公のように走りまわったりはしない。彼は雑踏の中に座り込んでじっと人々の顔を見続けたり、井戸の中に入り込んで底に座り、瞑想にふけったりする。
一見対照的な二人だが、実は同じ様な事をやっているともいえる。つまり、周りの人達と違うスピードで動くこと。これが、一枚岩にみえる「現実」を崩す有効な方法だということを示しているのだ。故に、やはり踊らされているばかりでは駄目だ。踊るなら他の人達より「速く」、あるいは踊らずにじっと踊っている人達の顔をみつめること。『バレット・バレエ』とは、周りの人より「速く」踊れ、という映画なのだ。
小川顕太郎 Original:2000-Apr-26;