葡萄酒色の人生 ロートレック
トゥルーズ・ロートレックの障害、おっと誤変換、生涯を描く。
今日では印象派というものは美術展を催さば、おばはん美術愛好家を大挙動員させる安全パイ的な絵画群だと思うのだが、その発生時においては美術界を揺るがす反体制の危険思想であり、この映画はその事実を再確認させてくれる。
例えば当時の「体制」の側であった歴史画の鑑賞会にロートレック一派が侵入し、「こんな絵は芸術ぢゃないぜ! ただのズリネタだ!」と紳士淑女の前でセンズリをこくジェスチャーをする、というアナーキーぶりだ。アートというものが解体され尽くした(と思える)1999 年にあっては芸術よりズリネタの方が大事ぢゃん、と思ったりもするが、まあ 100 年前のことなので良しとしましょう。
ロートレックが修行する画塾のええ加減な雰囲気を見よ。授業中に師匠の言うことにゃ「何、ロートレック君は童貞かね? ぢゃあこのモデルさんと一発やりたまえ。さあさあ関係ないモノは退席、退席!」…ってホントこの時代のパリはいいなあ! と感心することしきり。
さらに資金さえあれば娼婦は買い放題だったり(病気も貰い放題!)、カフェーで刃傷沙汰は日常茶飯事であったり、と「いい時代のパリ」の雰囲気を見事に再現している(ように思える)。綿密な考証が素晴らしく、ロートレックの作品群がアチコチに散りばめられているのも見どころであるし、さらにドガ、ルノアール、ゴッホのソックリさんも登場。ルノアールなどはただのスケベ親父で、笑かしてくれます。
ロートレックは、貴族的な価値観にアンチを唱え続けるアナーキーな放蕩息子として描かれ、痛快無比。同性愛万歳! セックスワーカーはメチャクチャ美しい! など、その自由な精神は今日においてもラジカルであり続けている。ロートレック万歳! 彼が近代グラフィック・デザインの開拓者であるのも、新しいものを取り入れるのにヤブサカでない自由な精神の持ち主であったからであろう、とか思ったり。やっぱりアーチストはアナーキーでラジカルでなくっちゃ! でも精神病院にたたき込まれないくらいのクレヴァーさも必要だぜ、という教訓も教えてくれる。
しかしながら後半は男女の情念のドロドロ描写に入り込み、ロートレックの身体の具合も悪化したりで少々眠い。とはいえ前半のエピソードてんこ盛りの疾走感が素晴らしいのでオススメだ。
さて、この映画のパンフである。
映画評論家、黒田邦雄氏が一文を寄せている。ロートレックの生涯を描いたものにジョン・ヒューストン監督の『赤い風車』があり、ホセ・ファーラーが身長 152 センチのロートレックを膝を折り曲げて演じているので動きが緩慢。
対して本作『葡萄酒色の人生 ロートレック』では「(BABA 注:ロートレックを演じる)レジス・ロワイエの身長がどれくらいかわからないが、彼はホセ・ファーラーのように身をかがめて演じることなく、自分の身長でのびのびとかけめぐる」(※)。前は膝を曲げたが今回は曲げてないぜ、その違いが両作のタッチの違いに反映しているんだぜ、との評論であるが、パンフの別のページではロートレックを演じた R ・ロワイエについて、「身長を低く見せるため膝を曲げて演じるという苦心が伴ったが」(※)とある。むむむ。どちらが本当?
映画を注意深く見れば一目瞭然で、ロートレックが駆け回っているように見えるのは編集のトリックであり、全身がとらえられているカットで彼は一歩も動かない。黒田邦雄氏の論は破綻しているのだが、問題はパンフレットの編集者にあるだろう。同一パンフに矛盾した記述があってもチェックしないのか?(編集:稲田隆紀氏、中村由紀子氏、日本ヘラルド映画、アイ・プランニング)揚げ足を取ってネチネチ書くのもなんなんですけどね。またこういう歴史を扱う映画の場合、どこが史実で、どこが創作か? に関するテキストがないのもふざけている、とボクは思うがみなさんはいかが?
(※『葡萄酒色の人生 ロートレック』パンフレットより)
Original: 1999-Nov-17;