ホテル・ビーナス
そのドアを開ける時 やさしさがあふれ そのドアを閉める時 涙があふれる。ババーン!
最果ての、とある街、心に傷を持つ人が集まる、ホテルビーナス。そこで働くチョナン(草ナギ剛)と、そこに暮らす人々との心の触れ合いを描く、哀しくて温かい物語……です。もし、あなたがすでにこの作品をご覧になられ、共感・感動されておられるのなら、以下の文章はまともなレビューでなく、たんなる悪口ですので、お読みになられないことをオススメします。
さて、まず、この作品は日本映画史上に残る画期的な作品である! と思うのですけど、どこが画期的か? といえば、登場人物(ほぼ)すべてが韓国語を話していることでございましょう。歴とした日本映画で、役者さんも日本人多数なのに、なぜ韓国語を話しているのか? 謎が、謎のままゴロリと放り出される。
ここで私なりの解釈を述べます。さては、「新春スターかくし芸大会」演し物「英語劇」「中国語劇」みたいな、「韓国語劇」映画を作ろうとしたのではないか?(って最近もやっているのでしょうか)しかししかし、例えば「英語劇」なら、英語時代劇『子連れ狼』にて大五郎が「パパー!」と叫ぶ、そういうミスマッチに興を催すのに、この『ホテル・ビーナス』は、どこでもない、無国籍的な、ニュートラルな場所として描かれるので、どんな言語が使われてもマッチしてしまって、わざわざ韓国語にする意味ないし。謎です。
これが、例えば冒頭に「韓国」とテロップを入れ、大々的に韓国ロケを敢行、韓国の風物をふんだんに盛り込んでいれば、全編で韓国語が話されるのも当然です。そうでないのになぜ韓国語か? うーむ。映画を見ている間中、「なぜこの人たちは韓国語を話しているのか???」との疑問が何度も頭をもたげ、ストーリーに集中できないではないですか! ……なんてことは全然なくて、映画の間ずっとヒマでしたので、そんなこと考えて時間をつぶしていたのが本当のところです。
そんなことはどうでもよくて、心に傷を持つ人たちの過去が少しずつ語られますが、各人の「心の傷」というのが結構ヘヴィなんです。しかし、ヘヴィなはずの心の傷は、一緒に暮らしているうちに癒されたようで、いやホントに良かったです。……って、かつて「からだの傷なら治せるけれど心の痛手は癒せやしない」と歌われたのが真理とすれば、彼らが「癒された」のなら、それは「心の傷」ではなかったのではないか? と私は問いたい。
例えば「ドクター」とあだ名される香川照之は、かつて街の名医でしたが、医療事故を起こして以来、酒浸りの日々。それがある日、ホテル同宿者・少年(あだ名はボウイ)が大けがをしたことを契機に、ドクターは卒然と立ち直って治療にあたります。ここでも疑問が頭をもたげます。ズッとアルコール依存症ドクターだったなら、「再び医療事故を起こしやしないか?」という葛藤が存在してしかるべきではないか?
こういう話を成立させるには、
- まず、他の医者に連れて行く余裕がない
- あるいは、傷を負ったボウイが「他の医者は嫌だよ…ドクターに看て欲しいんだ……ガクッ」と気絶する
- ドクター「おい! しっかりしろ! ……ダ、ダメだ! オレはもう指が震えてメスが持てないんだ……!」と躊躇する
- ホテルオーナー“ビーナス”「あんた! ここでシャキッとしないと本当にダメになっちまうよ!」と叱咤激励する
…これらが必要条件であろう。そういうベタな段取り小芝居もなしに、ドクターがいきなり立ち直ってしまって、私は呆然と立ちすくんだのですが、そこはさすが香川照之、なんとなく納得してしまうのが凄いです。
他にも、心に深く傷を負った方々が続々登場します。そういう心の傷オンパレードでも、たとえば『赤ひげ』 (1965, 黒澤明)と比べると、ホテル・ビーナス滞在者の心の痛みは、小石川療養所に集う人びとほどには観客私にリアルなものとして伝わってこなかったのであった。って映画史上に燦然と輝く金字塔的名作を引き合いに出すのはどうか? と思いますけど。
どこでもない場所(実は韓国)で、どこかで見たような/聞いたような不幸を背負った人たちが、よくわからない内に癒される、そんなお話でした。しかしながら、草ナギ君のタップはなかなか素晴らしく、香取慎吾君が一瞬登場するシーンとともに「新春スターかくし芸大会」的雰囲気がパーッと漂い私はホッと胸をなでおろしたのでした。静かなところで考え事をしたい人にオススメです。おしまい。
★(☆= 20 点・★= 5 点)
BABA Original: 2004-Mar-23;Amazon.co.jp で 関連商品を探す |
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