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 Movie Review 2004・3月23日(Tue.)

ドッグヴィル

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『キングダム』などの、デンマークの変な監督=ラース・フォン・トリアー新作です。店主も指弾されたように、私も「ポスターの宣伝文句は思いっきりネタバレしている!」と呆れ返りましたので、ともかくひたすら目をつむって、事前情報皆無でのご鑑賞をオススメします。

 以下、ネタバレ含みます。ネタバレを親の仇より憎む方は、その辺に配慮された店主の日記「ドッグヴィル」の方をお読みください。

 アメリカはロッキー山脈のふもと、閉山なった炭鉱の寒村“ドッグヴィル”すなわち“犬村”を舞台に物語が展開します。冒頭、ドッグヴィル全景をとらえた俯瞰撮影に私はまず度肝を抜かれたのでした。体育館のような空間に家・道路を表す白線が引かれ、通り名が文字で書かれている、という、何とも人を食ったセットで、各家屋は壁もほとんどなく、隣の人が何をしているか丸見え。なのに登場人物・彼/彼女らはそれを見えないものとして行動します。こういうセットなら、普通(?)は付けるドアすらなく、彼/彼女らはドアが存在するかのごとく、パントマイムでドアノブを回す、という具合、前衛演劇(何?)の舞台を見るかのような按配です。

 トリアー監督は、昨今の、例えばエンドタイトルにえんえん何百人もの名前が連ねられる、肥大化したアメリカ流映画製作法を批判し、「もっとシンプルに作られなければ、面白くて意欲的な作品は生まれない」と“ドグマ 95”を提唱しましたが、この『ドッグヴィル』はそれを踏み越え、ただ白線に還元されたセットという奇策に出たのであった。

 映画製作は、セットを組み立てたり、ロケ撮影ならば日が照るのを待ったりと、製作費がかさむ要因がいっぱいみたいですけど、白線セットならたいへんなコストダウンとなります。俳優を照明のセッティングなんかで待たせることも少なかったでしょう。『ドッグヴィル』物語を普通に映像化すれば、膨大な製作費がかかるところを大幅節約、その分豪華キャストのギャラにつぎ込むことも可能になって、実際トリアー監督作にしてはかつてない豪華キャストだったりします。

 さらに、抽象的・構成主義的なセットは、観客の深読みを喚起するし、また観客は自分なりにリアルな“ドッグヴィル”風景を勝手に想像・構築できるであろう。まさに一石二鳥、三鳥、四鳥、素晴らしいトンチである。うむ、と私は茫然と一人ごちたのでした。さらに、このセットがなかなかカッコよく、きっとトリアー監督は「ダムタイプ」からパクったに違いない、と憶測。

 いやいや、トリアー監督が「映画にとって大事なのは、ただ感情の流れ=エモーションであって、セットや風景・背景にかける労力は必要最小限でよいのだ」と言わんばかりに白線セットを提示しているのに、それについて四の五のぬかすのは愚の骨頂でありました。セットに面食らうのは最初だけ、お約束の展開を見せる物語に私はぐいぐい引きずり込まれたのでした。なんと申しましょうか、白黒映画に色が無く、無声映画に音がなくても面白く見られるのに似た感じ、さしずめ「無背景映画」と呼ぶべきか?

 それはともかく、寒村ドッグヴィルに、逃亡者・ワケあり美女=グレース(ニコール・キッドマン)が闖入、プロローグ+全体 9 章の各冒頭には要約が添えられ、さらにジョン・ハートによる懇切丁寧かつ、くどいナレーション付き、気の抜けた情緒的な音楽も添えられ、トリアー監督がストーリーテラーぶりを発揮、私は物語に没入、3 時間弱がアッという間、というわけでもないですけど、随分短く感じられたのも事実、しかしときおり「何もない空間で草刈りしている光景はやっぱりアホみたいですね」と我に帰り、俳優さんも大変ですね、とごちる。「感情移入」と「我に帰る」、この繰り返しがなかなか気持ちよいわけです。グレースを巡って、村人たちは当初警戒し、やがて暖かく迎え、ついに虐待、非道な行為に及びつつ、ついつい何もない空間でドアノブを回してしまう、役者さんが熱演して盛り上がるほど爆笑しそうになって困りました。

 それはともかく、この作品はアメリカ帝国を風刺しておりますが、「田舎の貧乏白人批判」にとどまらないのは、くり返し「都会も田舎も同じようなもの」とセリフで語られることからも明白です。中途半端な知識人が村人を善導し、何せ民主主義が進んだ国ですから、何かと教会に集まって討論・多数決を行う。産業といえば、りんご園と、安物のグラスを削って高級品に見せかける工場、ショウウィンドウに並ぶのは馬鹿げた人形。男性諸君は性欲をたぎらせて性的嫌がらせ・性的虐待にいそしむ……。って、「風刺」というより、ほとんど喧嘩を売ってるに等しい「悪口」になっているのが素晴らしい、と私はほくそ笑んだのでした。

 で、何より凄い! と思うのはグレースのキャラです。トリアー監督といえば『奇跡の海』エミリー・ワトソン、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ビヨークのように、女優をなかば虐待同然に、ギリギリまで追い込むことで有名だそうで、この『ドッグヴィル』主人公グレースも大変な災難に遭うのですけど、キッドマンの演技はあまり追い込まれているように見えないなー、と思っていたら、グレースは全然追い込まれていなかったことが明かされる。

 グレースは、権力を持つことから逃げていたのだけれども、それが「傲慢」であると批判され、決然と権力を行使する……。この『ドッグヴィル』は、「貧乏人批判」の面もあるけれども、「権力者の卵」が庶民のリアルな姿を知り、権力の行使にためらわなくなるまでを描く、権力者の誕生物語なのであった。毎度毎度、アメリカのイラク侵略と絡めるのもどうか? と思いますけど、たとえばイラク侵略の動機のひとつに「アメリカの民主主義を世界に広める」というのがありました。他国を「民主化」するなど何様のつもりか? 傲慢ではないか? との誹りをまぬがれぬところですが、いやいや、アメリカの権力者にとっては「民主化=善」であり、圧倒的な力を持つアメリカが、「何が善であるか」を示さない方が傲慢である、それは暴力をもって行うのが効果的であろう、なぜならそれは「しつけ」なのだから……と、いうところでしょうか。

 権力をめぐる、キッドマンとジェームズ・カーンの対話は、この映画のクライマックスで、たんたんと進みますけどスリリングです。それまでふにゃふにゃしていたキッドマンのキャラがダーン! と立つ瞬間です。そして、『ドッグヴィル』はアメリカ・ギャング映画のフォーマットを援用し、アメリカの総てを描き尽くしたのであった。

 それまで「記号」でしかなかった犬が、表面のテクスチャー(肌触り)を獲得して猛然と吠えかかる、それはまさにアメリカに喧嘩を売るトリアー監督の姿に他ならない……。かどうかは、観客諸君が勝手に判断していただくとして、アメリカの貧乏人の生活をとらえた「テクスチャー感」満点の写真の数々が『ヤング・アメリカン』に乗せて映し出されるタイトルバックは傑作で、普段エンドタイトルが始まるとほとんど即、劇場を後にする私も、ついつい最後まで見てしまったのでした。

 まあ、そんなことやあんなことはどうでもよく、本作のニコール・キッドマンが素晴らしいわけで、『悲しみのトリスターナ』『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーヴ、あるいは『清作の妻』若尾文子を彷彿としました。その他、ベン・ギャザラ、ローレン・バコール、ジェームズ・カーンなどビッグ・ネームが、貧乏くさいセットで真剣に演技しているのが笑えますし、メキメキ売り出し中ポール・ペタニーも好演。この P ・ペタニー、役名トーマス・エジソン、愛称トム、ニコール・キッドマンから「グッバイ、トム!」と引導を渡されるのが痛快ですね。ってつまんないこと書いてますが、クロエ・セヴィニーも出てるし、意外な豪華キャストは、やっぱりセット代を節約できたからでしょうか? ってそんなことはどうでもよくて、「悪口・陰口」が好きな人にはバチグンのオススメではないかー? と勝手に憶測。

☆☆☆☆★(☆= 20 点・★= 5 点)

BABA Original: 2004-Mar-16;