半落ち
寺尾聡「私は、妻を絞め殺しました」と自首。彼は元・捜査一課のすご腕刑事、現・警察学校の教官で、ことによっては、警察の信用にかかわる一大スキャンダルに発展しかねず、…ってそもそも警察の信用が地に落ちている昨今、いまさら騒ぎたてることでも何でもなく、県警上層部の人たちは何をカリカリしているのでしょうね? と、観客私は、いきなり傍観者の立場に捨ておかれたのでした。
それはともかく、寺尾聡は、素直に自首し、自白しているものの、自首するまでに「空白の二日間」があり、これは「完落ち」ではない、「半落ち」だ! ババーン! 「半落ち」とは、「隣の家に囲いができたってねえ?」「囲い…………込み運動」というような、オチがついているのかついていないのかよくわからない状態、ではなく、容疑者が、容疑を一部自供するも、完全には自供していない状態を指す警察用語のようです。
そんなことはどうでもよくて、ベストセラーミステリーの映画化、以下、未見の方は絶対読まないでください。また、感動された方も読まないでください。
観客はまず、現代警察・検察のいい加減な仕事ぶりに呆れかえられることでしょう。警察上層部は「マスコミと世間が納得すればよい」という態度で供述書を捏造します。すったもんだがあって、検察も結局その供述書を受け入れてしまう。
本来、そういう警察と検察のなれあいを批判すべきジャーナリズム、さらには裁判官、この作品の登場人物たちの法律軽視ぶりは、法律に詳しくない私から見ても恐るべきものがあり…というか、日本の「司法」が庶民感情にまったくそぐわないものになっているのでしょうね、と私は一人ごちたのでした。
日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』を読むと、刑法 39 条(心神喪失者の行為は之を罰せず)にかかわる恐るべき事態に唖然とせざるを得ないのですが、この『半落ち』に登場する警察・検察・裁判所・マスコミ諸君を見れば、ことは刑法 39 条だけにかかわる問題ではないのでは?
「マスコミと世間が納得すればよい」という事なかれ主義の上層部に反発して、井原剛志検事、柴田恭兵刑事、あるいは新聞記者の鶴田真由、弁護士の國村隼らが何をするか? 彼らは、被疑者の刑を軽くしようと半ば共謀するのであった。検事と弁護士が、新聞記者とつるんで判決を左右しようとすること自体、不正義なのではないか? と、私は思うのですがどうなのでしょう。
あるいは、法廷で妻・原田美枝子の「日記」が読み上げられますが、果たしてそれが本当に原田美枝子が書いたものなのかどうかは、検証されません。証拠として提出されることもなく、ただ聴衆(観客)を感動させるためだけに読み上げられる。
また、被疑者は「空白の二日間」に、新宿歌舞伎町に行っていたらしいが、その足取りをコツコツ証拠で固めることもされない。かつて『砂の器』(1974 ・野村芳太郎監督)、超・地道な捜査こそが刑事の職務、と描かれましたが、いまや 21 世紀、世はスピード時代、刑事の職業は大きく変貌を遂げたようです。
というか、「空白の二日間」に被疑者が何をしていたか? 回想シーンでは描かれても、被疑者はずっと否認し続けるわけですし、検事も弁護士も、足取りの証拠を何一つ提出しないのですから、法廷では「空白の二日間」は空白のままでしょう?
日本の警察・検察・裁判官ら、司法にたずさわる者は一体どうなってしまったのでしょうか? なんせ、総理大臣自らが憲法をねじまげて解釈する国なので、「マスコミと世間が納得すればよい」という態度を警察上層部がとるのは仕方ないかもしれません(んなこたない)。しかし、それに反発した者たちが取る行動はどうなんでしょう? 結局、「マスコミと世間が納得すればよいわけではないが、自分たちが納得すればそれでいい」というところに落ち着いてしまっているのでは? 正義はどこにあるのか? 判決に対し「思ったより重かった」という者もいましたが、私は「軽すぎる!」と思ったのですけれど。結局、話の決着がついたのかどうなのか? よくわからない「半落ち」のまま私は劇場を放り出され呆然と途方に暮れたのでした。
そんなことはどうでもよくて、寺尾聡+原田美枝子夫婦+ラーメン屋少年の挿話は、それだけで泣ける! 美しく悲しい話の周辺で、職務の本分を忘れた者どもが右往左往、自分たちだけ納得する、よくわからないお話でした。よくわからないので、ついつい原作を読んでしまう、そういう仕掛けかも? ともかく、よくわからない話ですが、登場する俳優さんたちの演技、それをじっくりとらえる演出は素晴らしいのでオススメです。
☆☆☆★(☆= 20 点・★= 5 点)
BABAOriginal: 2003-Feb-9;