マルホランド・
ドライブ
デビッド・リンチ、超待望の新作。
突然ですが、『脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界』(セミール・ゼキ著/日本経済新聞社)を読んでおります。その中で、私たちは美を表現するとき「言葉にできない美しさ」などと申しますが、これは、人類が「言語」を獲得するはるか以前より「視覚」を使ってきたので、「視覚」は「言語」に比べて圧倒的に洗練されているのである、言語で表現不可能の視覚があって当然、美を言葉にできないのは当たり前! という指摘があって、なるほど視覚と聴覚の美『マルホランド・ドライブ』の素晴らしさを言葉にするのは不可能、と私は卒然と悟ったのでした。
また、『マルホランド・ドライブ』のパンフを読んでおりますとね、リンチが敬愛してやまないフランシス・ベーコンの言葉「私の作品に意味はない。私は私の見たいものを描いているだけだ」が紹介されてまして、これは『マルホランド・ドライブ』にもピタリと当てはまるんちゃう? 『マルホランド・ドライブ』に筋の通った説明・意味を求めても正解はあり得ない。「意味」とは言語化の過程を経て獲得されるものなので、『マルホランド・ドライブ』に意味を与えようと言語を駆使しても、(詩人でもない限り)代わりに大事なものがスッポリ抜け落ちてしまうのでしょうね、と私は言葉の圧倒的な無力さを知ったのでした。
と、ワケのわからない話はこれくらいにして、と。
この作品、元々は TV シリーズのパイロット版として製作されたのですが、放映されず、お蔵入りしかけていたものを映画にまとめたものです。リンチはインタビューで、「結末は全然考えていなかった」と答えており、半ば無理矢理、というか、コペルニクス的転換によって一本の映画に仕上げられております。
そのせいか、連続ドラマでふくらんでいきそうなエピソードの数々が半ば宙ぶらりんで放り出されており、完成してはいるが「未完成」と言えるのではないでしょうか。曖昧さに満ちております。
観客は自らの記憶にもとづき曖昧な部分を補って、それぞれの『マルホランド・ドライブ』を完成させる、というわけなんですね。美術作品には、キャンバスが塗り残され未完成のように見えるものがあります。『マルホランド・ドライブ』もまた、塗り残しを持つ「未完成の美」なのだ、Beauty in progress。…と私は、もっともらしい感想を述べ、ポッと頬を赤らめたのでした。
さて話変わって、リンチの作品はなんとも不条理、そこに意味を求めても果てしない無意味が横たわっております。しかし、これを「幻想的」と評するのはどうか? と常々私は思うのですね。
『脳は美をいかに感じるか』にも書かれていたのですが、「視覚」とは多分に能動的な行為です。世界をあるがままに見るのは、大変むずかしい。なぜなら私たちはまずモデルを脳に作り、それを能動的に視覚にあてはめているのですね。つまり、知らない物、無いと思っている物は見えない。自分が見ている世界と他者が見ている世界は、意外なまでに異なっているのです。
例えばレストランの裏に「黒い顔の人」がいるとしましょう。「夢のお告げ」でそのことを知る者は、確実に「黒い顔の人」を見ることができる。しかし、「そんなもん、おるわけないがな」と考える者には決して「黒い顔の男」は見ることができないのです。
リンチは、常人が見過ごしてしまう光景をさらに凝視します。すると世界の本当の姿が見えてくる。『ブルー・ベルベット』の冒頭を憶えておられるでしょうか。鮮やかな緑の芝生をクローズアップすれば、無数の蟻がうごめいている、そんな感じ。リンチが描き出す世界は、不条理・不可思議さに満ちているのに、他の映画すべてをウソ臭く見せてしまうリアリティを持っています。
すなわち、「現実」の反対物としての「幻想」とは、リンチの世界ではないのです。リンチの世界こそが、リアルなのだ、と私は呆然と感動したのでした。リンチ最高!!
リンチは起きている時に見る「夢」を描く、と言います。思考、言語、意味をどんどん捨てていった末に浮かんでくるイメージ、それこそが真のリアルである、というわけなんですね。デビッド・リンチとは、「禅」の美に到達した最初の西洋人なのである。あ、すごい適当。
と、長々とますますワケのわからないことを書いておりますが、ともかくリンチは、スタンリー・キューブリック亡き後、今世紀、最マストな映画監督だと私は思うのです。世界約 60 億全人類どころか、猿、犬、猫、牛、馬、すべての生きとし生けるものにバチグンのオススメです。しかし、『マルホランド・ドライブ』を見た後では、大抵の映画がつまんなく思えてきますので要注意。…ってか、映画見る意欲が消えてしまいました。ガーン。
BABA Original: 2002-Mar-29;