ヴェルクマイスター・
ハーモニー
ハンガリー映画。うーむ、先日見た『ダーク・ブルー』といい、表現の自由を得た東ヨーロッパ映画が熱いみたいです(適当)。タル・ベーラ監督による、2 時間 15 分でたった 37 カット、しかもモノクロ、寝不足で見に行けば熟睡間違いなし、なんですけれど、これがバチグンに面白くアッという間、とは申しませんが、『旅芸人の記録』のテオ・アンゲロプロスににも似た長回しは、ちょこまかちょこまかカットを割る映画が多い当節にあって、長回しっていいよね、おまけに CG もまったく使ってないし(推定)、カメラが自由自在に動き回るのは、アンゲロプロスというよりは溝口健二風かしらぬ、と一人ごちたのでした。
ハンガリーの田舎町、「地球最大のクジラ」を見せ物とするサーカス団がやってきます。ゲストスターの“プリンス”が扇動的な演説で、各地に暴動を起こしているとか。ゲッ! プリンス! ウワサでは「小男」らしいという、さてはプリンスか!? と色めきたちましたが、そんなことはどうでもよく、結局、暴動が起こる、というお話。
さまざまな象徴、メタファーが投げ出されており、どうも「ヨーロッパ合理主義」というものが考察されているようです。観客一人ひとりが様々に解釈可能なので、以下は私見。
主人公、ヤノーシュ青年。天文学マニアです。酒場で「誰でも『永遠』が理解できる話を始めよう」…と、日食メカニズムの講釈をしたり。彼は同時に敬虔なクリスチャンでもある。巨大なクジラを誰よりも早く見物し、「神のあふれんばかりの創造意欲を知るためにも、見た方がいいよ!」とふれ回る。彼にとって篤い信仰心と科学は何ら矛盾するところではない。すなわち、ケプラー、ニュートンのように、科学と神を矛盾なく同居させることこそヨーロッパ合理主義の出発点なのですな。…適当ですけど。
ところが、彼が世話をする叔父さんは、ヨーロッパ合理主義を一旦捨て去るべきだと主張します。叔父さんは、町の実力者でありながら、音楽研究に専念するため自宅にこもり、「ヴェルクマイスター」批判の研究を行っています。
ヴェルクマイスターとは、「平均律」理論を確立した人で、バッハの友人でもあり、バッハはヴェルクマイスター理論をもとに数々の楽曲を作曲したそうです。厳密に平均律で調律されたピアノで弾かれる楽曲はとても聴けたものではない、我々はピタゴラスやソクラテスの頃の自然倍音に回帰すべし、と叔父さんは主張します。…って、よくわかりませんが、この辺の話は『ゲーデル、エッシャー、バッハ』でも展開されておりましたね。
ここに、叔父さんの奥さん(つまり叔母さん)、叔父さんと別居中のハンナ・シグラが登場します。ハンナ・シグラは青年ヤノーシュに強制します。「風紀を正す運動に協力するよう、叔父さんを説得して!」。ヤノーシュは言う。「…叔父さんは、そんなことはしないと思うよ」。ハンナ・シグラは脅迫します。「もし協力しなかったら、私は叔父さんの家に戻って、一緒に食事するわよ!」……なんだかよくわからないのですけど、メチャクチャ恐い!
「ハンナ・シグラに家に戻られてはたまらん!」と、叔父さんとヤノーシュは「署名」を集めに町へと出かけますが…ここの長回しが凄い! って、ただ歩く叔父さんとヤノーシュを延々と移動撮影しているだけですが、足音が段々と「音楽」に聞こえてくる。「平均律」を否定した「ノイズ・ミュージック」を奏で始めます。この足音による「ノイズ・ミュージック」は、より増幅され、無数の暴徒の行進として反復される。ハンナ・シグラの企みが、「ノイズ・ミュージック」を生み、暴動を引き起こす。
暴徒たちは「病院」を襲撃、病人に殴る蹴るの暴行を加えます。そして暴動が行き着くのは、「やせこけた裸の老人」。ナチスの強制捕虜収容所のイメージです。すなわち、ヨーロッパ合理主義を否定すればファシズムが生まれ、結局アウシュビッツが再現されてしまうのであった。
暴動が終わってみれば、広場にはハリボテ感満点の巨大クジラが横たわっています。ファシズムの熱狂が過ぎ去ってみれば、町は軍隊に支配されており、「神の神秘」は消え失せている。ヤノーシュは抜け殻の廃人と化す。ファシズム後に、ソビエト社会主義という別の全体主義を呼び込んでしまった東欧の悲劇でございましょうか。『ダーク・ブルー』同様。
ま、そんな話はどうでもよく、映像+音響に圧倒されるもよし、丹念に作り上げられた 37 カットの意味を読みとくもよし、バチグンのオススメ。
☆☆☆☆(☆= 20 点・★= 5 点)
BABA Original: 2002-Dec-24;