ダンサー・
イン・ザ・ダーク
『キングダム』『奇跡の海』などのラース・フォン・トリアーの新作は、どういうわけか一般ロードショー館、しかもお正月公開というとんでもないことになっており、やあやあビヨーク主演のミュージカルですか、ヒック、ってなオトソ気分で見てしまうと、新年早々暗澹たる気分に襲われること必至の徹底的な悲劇。
ビヨーク演じるセルマは、チェコからアメリカへ移民してきたシングルマザー。遺伝性の眼病を患っており、まもなく自分が失明することを知っている。発病の危険を持つ息子だけは、手術を受けさせようと、金物プレス工場で働きいの、内職もしいのでコツコツと手術費用を貯めている。ところが、ところが、と、不幸の坂道をゴロゴロと転げ落ちていく。
L・V・トリアー監督は「ドグマ 95」の誓いというのを立てておる。「ドグマ 95」の誓いをパンフレットの中条省平氏の一文から拾ってみると、
- ロケ撮影をおこない、大道具、小道具は使わない。
- 音は自然音に限り、バックに音楽を流してはならない。
- 撮影は手持ちキャメラでおこなう(キャメラを設置して、その周囲でドラマを演じ、それを映画に撮るのではなく、キャメラは起こっている出来事を記録するのみ)。
- フィルムはカラーで、特殊な撮影はおこなわない。
- トリック撮影、特殊効果、フィルターは使用しない。
- 殺人や武器の使用など、うわべだけのアクションはもちこまない。
- 時間的にべつの時代、空間的に別の場所を舞台として設定してはならない。
- 商業的なジャンル映画はつくらない。
- フィルムは 35 ミリ、スタンダード・サイズとする。
- 監督の名前はクレジットしない。
……云々(同パンフレット「ラース・フォン・トリアーの『アメリカ』」より引用)。
すなわち、ドグマ 95 は、ミュージカル映画の対極に位置している。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でのミュージカル・シーンは、振り付けバッチリの非ドグマ 95 演出で撮られ、ドラマ部分は、ドグマ 95 にのっとって撮られている。異なるタッチを混在させているのは、この作品が、「ミュージカル批判の映画」だからだ。
かつて、マルクスだかが言った「宗教は阿片だ」という言葉があり、これは、宗教というモノは、厳しい現実から目を逸らさせる鎮痛剤の役目を果たしている、というような意味だ。そして今日、阿片の役割を果たしているのは、イリュージョン=幻想・幻影を与える映画なのだ。この作品では、アメリカ映画、とりわけミュージカル映画の阿片的な役割が暴露されている。
ドグマ 95 は、映画のイリュージョンを徹底的に排除し、現実を映画によって直視しようとする。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のミュージカル・シーンはすべて、主人公セルマが厳しい現実から目を逸らし、心の痛みを和らげるための幻想である。イリュージョンは、不幸を解決するものではなく、ヘタをすると、現実に目をつぶるあまりにドンドコ不幸を進行させてしまうのだ。この映画では、ミュージカル演出との対比によって、ドグマ 95 が目指すものが、より明らかになっているのであった。
「ミュージカル批判」、ではあるが、ミュージカルは有害であるとただ断罪しているのではない。場面数は少ないが、登場するミュージカル・シーンはどれも最高に気色良く、映画的な喜びに満ちている。鎮痛剤としては素晴らしい効果があるのであった。要は、使い方ですな。
ところで、何故にカトリーヌ・ドヌーヴのような中年美女が、こんな田舎の工場で働いているのか? との疑問が沸々と湧くが、話によるとドヌーヴは『奇跡の海』を見て大感動、L・V・トリアーにどんな役でもいいから出させてくれ! と懇願したらしい。
あまり、役者っぽい役者は使いたくなかった L・V・トリアーはそれに対して「うーん、35 歳の黒人女の役しか残ってないよ」と体よく断ろうとしたのだが、ドヌーヴが一枚上手で「その役でいいわ! いままでそんな役、演じたことないし!」と答えた、というウワサ。なるほどドヌーヴは 35 歳黒人女を演じているのだと思えば、何の違和感もないのであった。
『奇跡の海』に続き、ベンダースやジャームッシュ作品でお馴染みのロビー・ミューラーが撮影を担当。デジカメを使って粒子が粗かったりと、綺麗・綺麗な映像ではないが、やっぱり最高。
この作品を見て、嫌な気分になる人もいると思うが、ゴー! ラース、ゴー! って感じ。まあ、いっぺん見てください。ボクはもう一回見に行く!
BABA Original: 2001-Jan-10;
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