「ペイ・フォワード
可能の王国」
これまたよくわからない邦題。『ペイ・バック』の続編? ではない。原題は、“Pay It Forward”。「It」が抜けているのは、近頃世間で喧伝されている「IT」革命批判の意が込められている。IT 革命とは、所詮、政府が景気対策の無策ぶりを隠蔽するためのでっち上げでしかない。世界を変えるのは、この映画が示すような「善意」なのだ、と言いたいわけだ。ホンマか。知らん。
そんな話はどうでもよくて、ケヴィン・スペーシー演じる社会科の先生が、7 年生(日本でいえば中学 1 年生)のクラスに課題を出す。
「諸君は、学校でも家庭でも、日々束縛されて生きている。大人になって社会に出る、さあ自由を享受しよう、と思う。しかし、そのとき世の中がクソったれだったらどうする? 世の中を変えるしかないのだ。世界を変える方法を一年かけて考えていこう」。
生徒のジョエル・ハーレー・オスメント少年は、父親=家出して行方知れず、母親=アル中治療中ラスヴェガスのウエイトレスで、「世界がクソったれ」であること百も承知。さっそく「世界を変えるための処方箋」を思いつく。それが「ペイ・フォワード」=善意の先贈りだ。人に善意を施し、こう言うのだ。「お返しはしなくていい。その代わり、誰か 3 人に善意を施してあげて」と。
ケヴィン先生は、顔に大きな火傷の跡があって、人との深いつきあいを絶っている。オスメント少年は、そんな先生の心を開き、シングルマザーで苦労する母親(『恋愛小説家』のヘレン・ハント)とくっつけて「善意」を実現しようとアレコレ奮闘。果たして、この恋の行方は? というのがメインのお話。
自分の殻に閉じこもりがち、ずっと孤独に生きてきたケヴィン先生のキャラが良い。『アメリカン・ビューティ』に続き、ビリー・ワイルダー映画のジャック・レモンを彷彿とさせる。
話変わってビリー・ワイルダーといえば、『ザ・エージェント』のキャメロン・クロウ監督によるロング・インタビュー本の邦訳が出版され(『ワイルダーならどうする?』キネマ旬報社)、チョイチョイと読んでいるのだが、『ペイ・フォワード』が、ワイルダーの多大な影響下にあることがわかってくる。
アル中の母親が酒を求めて苦しむシーンはワイルダーの『失われた週末』だ。謹厳実直な教師とラスヴェガスのウェイトレスのカップルもワイルダー的な「身分違い」のロマンスだ。「ナレーションは、観客の目にしていることを語ってはいけない。」は「ワイルダーから脚本家に与える助言」に加えられており、そういうシーンがある。本の中で脚本作りで協力したレイモンド・チャンドラーを評してワイルダーがこう言う。チャンドラーはシナリオを組み立てることができなかったが、「水の入っていないプールほど空虚なものはない」といった見事なセリフを書くことができた、と。『ペイ・フォワード』にも、「水のないプール」が出てくる!
と、いうことで、ワイルダーに敬意を表しているだけあって、語り口がなかなか良く、ケヴィン・スペーシー、オスメント少年、ヘレン・ハントの三人の俳優の共演ぶりも素晴らしい。「ペイ・フォワード」を受け取ったジャーナリストが起源を探る話も平行して語られるが、ロマンス話に的を絞った方が良かったんじゃないか? と思ったり。
しかしながら、オチの付け方がはなはだ偽善的で脱力。ミミ・レダーだし。そもそも善意は世界を変える出発点にはなり得ても、そんなもんで世界が変わるはずなく、ワイルダーならずとも皮肉な展開が用意されねばならないのだ。オスメント少年の考える善意も、「要らぬおせっかい」に簡単に転化するものだろう。善意の絶対性を疑わないアメリカニズムをここに見た。知らん。そういや『フィールド・オブ・ドリームス』にラストが似ているぞ。
困ったオチだが、相変わらずケヴィン・スペーシーのシャベリが素晴らしいので、オススメ。
Original: 2001-Feb-14;
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