暖流
増村保造レトロスペクティブの一本。上映のトラブル、というものは、いつまででも憶えているものです。と、いうことで『暖流』は一生忘れられない作品になりました。
ワイドとスタンダードのレンズを間違えるのはよくあることです(よくある?)。普通、大映マークが出た時点で、「なんかおかしい」と思いますよね。それがなかなか直らないのです。直ったのは 10 分後くらいでした。一度修正されれば、大抵は大丈夫なんですが、スクリーンサイズを修正したつもりが実はそれも間違っていて、再び修正のために上映が中断しました。いつまでも左右の黒幕の位置が定まらなかったりもしました。巻のつなぎがシックリ来ないのは、よくあることなので(よくある?)、いいのです。
上映終了後、青年映写技師氏が客席に下りてこられ、「責任はすべて私にあります」と謝られました。私は、さっさと帰りたかったのですが、他のお客さんは暖かく許されたようで、拍手が起こったりもしておりました。目出度し、目出度し。
「責任はすべて私にあります」と映写技師さんはおっしゃられましたが、果たしてそうでしょうか? という話です。
このような上映ミスは、観客に「あなたは映画を見ることにどれだけ真剣ですか?」との問いを突きつけるのですね。真剣たらんと欲すれば、サイズ違いが判明した時点で、上映を最初からやり直すことを要求すべきでした。「いやそうは言っても終了時間が遅くなって他の方に迷惑がかかるし…」と引いてしまいました。
何度も途中で帰ろうか、とも思いました。「この機会を逃せば、『暖流』を二度とスクリーンで見ることができないであろう」と考えてしまいました。作者の意図しない形での上映を受け入れた時点で、ただ「『暖流』をスクリーンで見る」ことだけが目的になってしまっていたのですね。私は、映画ファン的なスノビズムにいつの間にか犯されていたことに気がつき、愕然としたのでした。
増村保造映画の主人公たちなら、憤然と席を立ち、直ちに映写室に怒鳴り込み、床を転げ回って「やり直せー! やり直さなければ死ぬる!」と駄々をこねたことでしょう。「おんどりゃー、どう責任取るんや!」と映写技師さんの胸ぐらを掴むくらいはしたかも知れません。
観客は入場料を払っているのだから完全な形で映画を見せてもらう権利がある…ではなく、増村保造的に言うならば、私には「最良の形で映画を見たい」という「欲望」がある。トラブルに文句を言わないとは、欲望を抑圧したことに他なりません。
そう、『暖流』の映写トラブルは、映写技師さん個人の責任ではなく、欲望に忠実になりきれない私が引き起こしたのですね。そして、映写技師さんを暖かく包んだ観客の拍手。これこそ増村保造が徹底的に攻撃したムラ社会が、劇場に出現した瞬間ではないでしょうか? 「映画好き」ムラ社会。
途中で退席できなかった、厳重に抗議しきれなかった私。こういう優しさをはき違えた私が、京都の映画館をどんどん駄目にしていっているのです。「結局、私は増村保造の映画を何も見ていないのも同然だった」と、たまらなく自己嫌悪に陥った夜でした。完。
BABA Original: 2001-Apr-06;