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Movie Review 2000・3月1日(WED.)

富江 Replay

公式サイト: http://www.tomie.net/

 伊藤潤二原作の『富江』の二度目の映画化で、前回『富江』は、話はパッとしないが菅野美穂のブチ切れぶりが素晴らしかった。が、今回は宝生舞にバトンタッチ。悪くはないけれども、やっぱり『富江』『催眠』で見せた「こいつ、大丈夫か?」って感じの菅野美穂を知ってしまうと物足りないワケです。はい。

 ホラー、またはスリラーを映画にするには特殊な才能が必要なのであって、マンガでも小説でもそうなんだけど、作家には“生涯一(いち)怪奇作家”たらんという気構えが必要である。映画は詳しくないのでパッと浮かんで来ないが、漫画ならば楳図かずおや伊藤潤二、諸星大二郎、小説ならばスティーブン・キングなどなど。ホラーは、まずマニア様をば、満足させねばならないのだけれど、それには監督自身がマニアでなければならない。ホラーにはホラーの論理というものがあって、“普通の”映画とは違った演出が求められるからだ。

 これはコメディ映画が誰でも撮れるジャンルではないのと同じ。コメディでは観客に笑いを、ホラーでは悲鳴をあげさせなければならない。観客の感情をひきづりまわすテクニックが必要なのだ。考えてみればホラー作家の多くは同時に笑いを取ることにも長けていることが多いな。

“恐怖”と“笑い”というのは紙一重のモノで、『脳の中の幽霊』っちゅう本では、笑いとは、「コレコレは危険に見えるけれども、実は安心していいんだよ」ということを群れに知らせるために、恐怖の表情を残したまま、がはははははははははは、と大声を上げるサインが笑いに発達したのでは? と推論されているくらい恐怖と笑いはほとんど同じ。『ミザリー』という気色悪い映画があるのだけれど、観客が「ひいぃぃっ!」と恐怖に引きつった声を上げたのと同時にゲラゲラ笑ってた人(あ、オレか)がいるのは、ほんの少し視点を変えただけで、ホラーはコメディに転嫁する(逆も真なり)、ということを示している。どちらにも“ツボ”というものがあり、それは非常に近いところにあるのだ。または同じツボの押し方の違い、みたいな。

 で、伊藤潤二。気色悪い話なれど、なんともいえんおかしみがあって、たまらんのだが、この味わいこそ恐怖の王道。気色悪くもあり、おかしくもあり。

 で、映画『富江 Replay 』はというと、どうにもかったるい。お腹をメスで切ったれば、そこからお目目が覗いてたよ、とか、首なしの女の子がバーンと登場、首の付け根のあたりからニョキニョキ首がはえてきてさ、とか爆笑可能なショッキング・シーンがあるのはあるが、盛り上がらないことはなはだしい。「来るぞ、来るぞ」と思わせといて、ときにはちょっとスカしたりもして、ドーンと出したら、「もうイヤン!」ってくらいひつこく見せなきゃいかんのだが、「ハイ! 首は終わり! 次行って見よ〜!」って感じで、全然別のところに話が移っちゃう。

 演出もあかんが脚本もあかん。前半は、病院で変なウワサがたっていて、なんでか? って謎解きなのだが、観客の大半は「そんなん富江に決まってるぢゃん! 何モタモタしてんねん! 早よ、富江出さんかい! 富江! 富江! 富江!(ダン、ダンと床を踏みならす)」と文句タラタラだろう。冒頭、ツカミでチョビっと富江を出してるから、謎解きはほとんど意味なし。だるいだけ。前半だるくても後半、恐怖のつるべうちなら良いのだけれど、富江さん出現後もだるいし、クライマックスで宝生舞がいきなり変な顔になるのもなんとかして欲しい感じ。

 つうわけで、菅野美穂さんカムバック希望。

BABA Original: 2000-Mar-01;

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