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Text by 小川顕太郎
2006年02月22日(Wed)

分かりやすく天才
数学

 我々(?)は、よく安易に“天才”といふ言葉を使ふ。たとへば音楽などを聴いてゐて、「ああ! やつぱドレは天才だわ!」とか。しかし、この場合、“天才”の定義は曖昧である。せいぜい“凄く才能がある人”“能力の卓越してゐる人”ぐらゐの意味で使つてゐると思はれる。だからその“天才”といふ評価に対しても、色々と異論が出たりするだらう。えー、さうかなー、私そこまでドレいいと思はないしー、とか。ま、それは仕方がないのかもしれない。音楽や文学などは、なかなか客観的な尺度が持ちにくいジャンルだからだ。が、ここに、比較的、文句なく分かりやすく“天才”といふ言葉を使へる、いや、使つても差し支へないと思へるジャンルがあつて、それが数学なのだと思ふ。いや数学の世界でも、彼は天才ではなくせいぜい大秀才だ、とか、衆議が分かれる場合もあるだらうけど、音楽などよりも分かりやすいのではないか。

 たとへば、ラマヌジャン。インドの貧しい家に生まれた彼は、独学で数学を修得。故に証明などの必要性が分かつてゐなくて、驚くやうな結果だけ出し続けた。それも、夢の中で信仰するナーマギリ女神から教へられた、と称して、毎朝新定理を半ダースほど持つて現れたといふ。優秀な数学者たちが何年も呻吟して、なんとか新しい定理を考へ出さうとしてゐる時に、無造作に毎朝何個も新定理を持つて現れるとは、正にレベルの違ひを感じさせ、“天才”の呼称を躊躇なく与へたくなるだらう。

 たとへばハミルトン。5歳までに英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語をマスターし、10歳までにイタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシア語をマスターし、ユークリッドの「原論」を読破したといふ。なんだか書いてゐて、クラクラしてしまふ。とても同じ人間だとは思へない。レベルの圧倒的違ひを感じさせる、といふ意味で、“天才”と呼んでも差し支へないだらう。

 ところで考へてみれば、ここで私がラマヌジャンとハミルトンについてあげた例は、数学には直接関係ないことである。実際問題、彼らが数学の世界で成したことの偉大さ・天才性については、ある程度数学に通じないと分からない訳で、結局のところ私が数学者について安易に“天才”といふ呼称を使ふのは、私が数学の事を分かつてゐないからではないか。うん、さうかもしれない。

 なんか混乱したので今日はこれまで。

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