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 Diary 2005年3月7日(Mon.)

『環境リスク学』続き

 昨日の続き。

 まづ最初に1に対する検討から始める。のだが、その前にひとつ言つておくと、中西準子の論文は、福岡・宮崎・小林三者による鼎談より先に書かれてゐる。だから、これらの批判に答えるのはあくまで私が中西論文から得たものによつてする訳で、頓珍漢な所があればそれは全て私の責任である。と、まァ、言ふわけで。

 アメリカの牛の検査数が、素人目から見ると凄く少なく見えるのは事実である。福岡伸一は1億頭のうち2万頭、最近ではやつと22万頭、と言つてゐるが、中西準子も1億頭のうち5万7千頭が検査されてゐるに過ぎないと言ひ、やはりこれはサンプル数が少ない、と言つてゐる。が、リスクレベルがあまりに低いので、たとへこれらの検査から予測される危険値を100倍にしたとしても、リスクレベルはあまり変はらない、とも言つてゐる。表にしてそれを示してくれてもゐるが、昨日も書いたやうに、私は自分がちゃんとそれを理解してゐるのかどうか、自信はない。なんとなく納得できない所もあるが、言ひたい事は分かる、といつた感じ。つまり科学においては、全体を実験・検査するのは不可能でも、そのうちの一部を抜いて実験・検査したら、全体を類推する事が可能だし、そうせざるを得ないこともあるし、実際そうやつてきた・ゐる、といふ事だらう。中西準子も書いてゐるが、100年かけて2000億円の費用を使つて全頭検査をしたとしても、救へる人数は0.01人増えるだけだと言ふ。もしこれが本当なら、確かに闇雲に全頭検査をするのは愚かだと言へる。問題は、どの程度の割合を抜いて実験・検査したらほぼ正確な数字が出るのか、といふ事だと思ふが、素人の悲しさでそこら辺はよく分からない。自分が信頼できると思ふ専門家の言ふ事を信用するしかない、といふ気がする。

 最後につけ加へると、各国の検査牛のBSE陽性率(狂牛病にかかつてゐる率)を見てみれば、むろんどの国も全頭検査はしてゐないが、みんな思つてゐたより低い。最も高いイギリスでも100万分の2737で、ポルトガル1046、アイルランド471、フランス75のドイツ35で、全頭検査を行つてゐる我が国では100万分の3.3である。これらの数字が、全頭検査をしたからと言つて、そこまで劇的に上昇するとは思へない、といふのも実感だらう。ただ、各国がどの程度の割合で検査をしてゐるのか(全体の何パーセントの牛を検査してゐるのか)、知りたい気はする。

 猶、アメリカの検査法が他国に較べて杜撰、といふ事に関しては、中西準子は何も触れてゐないので、素人には是非が判断できない。が、これに関しては、後で(3の批判検討の時に)もう一度述べる。

 次に2の批判だが、これは1と重なる部分があると思ふ。確かに、狂牛病の罹患率は、イギリスでのものを基にして、他に応用してゐるやうだ。だから、イギリスでの罹患率があがれば、我が国での罹患率予想値も高くなる。今のやうに0.8人、とか言つてゐられなくなる。が、しかし、福岡伸一によると、現在までの発病者は150人だがこれが数千人にふくれあがる怖れがある、といふ事になるが、たとへさうだとしても、あまりリスクレベルは変はらないのではないだらうか。イギリスでは現在までに75万頭の狂牛病の牛が食べられたさうだが、それで発病者は150人である(中西準子は661人で計算してゐる)。これが数千人に増えても、対してリスクはあがらないだらう。

 3の批判は微妙である。狂牛病のメカニズムが完全に解き明かされてゐないのは事実である。だから完全根絶を、といふのは些か俗耳に入りやすい論だ。そりゃ完全根絶できれば良いが、それができない、あるひはそれをする事によつて多大な負担・マイナス・損失が起こるからこそ、問題になつてゐるのではないか。我々は無限のお金と時間を持つてゐる訳ではない。0.01人の命を救ふために2000億円かけてゐる間に、もつと他のところで苦しんでゐる人たちを見殺しにしてゐることになりかねないのだ。

 反対派の3人は、アメリカの検査法はサンプル数が少ないだけでなく、検査の仕方も杜撰だ、といふ。これが本当なのかどうか、素人なので分からない。ただ、福岡伸一が、「全頭検査を止めることによつて税金を節約できるといふ人がゐるが、そんなにお金はかかつてゐない。たとへばエライザ法なら20万円ぐらゐのキットで100検体ぐらゐできるので100グラム1円の計算です」みたいな事を言つてゐるが、どうもこれはおかしいやうな気がする。今まで日本では300万頭の牛を検査してきたやうだが、単純に考へて、20万円で100検体なら、300万頭で60億円ぢやないか? しかもこれはキット代だけだし、このエライザ法は4段階行はれる検査の1番目といふから、この何倍ものお金がかかつてゐることになる。これッて、お金がかかつてゐるんぢやないの? それとも私の理解が変ですか? やはり、ここまでの事を考へると、全頭検査はお金が莫大にかかる上に効果も少ない、と言はざるを得ないやうな気がするのだが。(つまり、精密な検査をしてもお金がかかるだけで効果が限りなく小さいのなら、杜撰でもほぼ同程度の効果を得られる検査法の方がいい、といふ事だ。これがリスク論の考へ方。詳しくは下記)

 最後に4の批判。これは、もう、何をか言はん。中西準子のリスク論に真ッ向から反対する考へだ。人の死を確率で考へるのが気持ち悪いのは分かる。が、リスク論は全体のリスクを下げるために、つまり一人でも多くの人を救ふために、敢へて人の死を確率で考へるのだ。単純化すると、ここに二人の人が死にさうになつてゐて、しかし自分はそのうち一人しか助ける能力がない、といふ時にどちらを選ぶべきか、といふのがリスク論なのだ。これは人の価値に優劣をつける事だから、明らかに差別である。しかし、差別をしなければ、つまり平等に扱へば、二人とも見殺しにするしかない。そんな結果を愚として、敢へて人の死を確率ではかり(優劣をつけ)、どちらを助けるべきかを決めるのがリスク論なのだから、それに対して「重大な感性の欠落がある」とか「人の死を待つてゐる」などと言ふのは、滅茶苦茶だと私は思ひます。

 といふ事は、反対派の人たちも、狂牛病で死ぬのは交通事故で死ぬよりずつと確率が少ない、といふ事は半ば認めてゐるやうなので、狂牛病はそれほど騒ぐことでもない、といふ事になる。……

 結論。中西準子の主張の方が妥当、だといふ気がする。しかし、約半年前に反対派の3人の鼎談を読んだ時には、その鼎談に大いに頷いて「アメリカ許せん!」と息巻いた自分なので、かういふ結果を出すのは少々恥ずかしいのも事実だ。言ひ訳をすると、やはり素人なので、全頭検査の非効率・非合理性などは分からず、全頭検査をしないのは杜撰だ! と言はれると、さうか! と思つてしまふ。それが自分がある程度信用してゐる人たちの口から出たものであれば、といふ事だ。実際、今回も中西準子の方が信用できさうだ(この問題に関しては)、といつた感想が根拠で、自分で科学的に全頭検査の是非や狂牛病のリスク度が分かつた(納得した)訳ではない。とはいへ、4の批判など、考へ方自体に問題があるので、(最初に読んだ時に)そこで一寸引つ掛かつておくべきであつた。私自身の読み込みが杜撰だつた、としか言ひやうがない。反省。

 今回の考察が妥当であるかどうかを見極めるため、狂牛病問題はこれからも注目していきたいと思ひます。

小川顕太郎 Original: 2005-Mar-10;