感謝するタカハシくん
タカハシくん来店。東京行きを約一月後に控へたタカハシくんは、急にオパールに対する感謝の念が湧いてきたやうである。
「ここに来るやうになつて、映画のことや本のことや音楽や服のこと、一般常識や歴史やスタイルや考へ方、とか、色々教へて貰つて本当に良かつたです。それまでは結構自分のこと、何でも知つてゐるし、イけてるな、と思つてゐたんですけど、ここに来て、コロッとひつくり返されました。自分の知らない広大な世界がある、と気づいただけでも、ホントーに良かつたです。」
うむ、ま、当然だな、その感謝は。が、少し遅きに失した感がなくもないが、まー、仕方ないか。感謝といふのは、たいてい遅くするものだ。あんまり早く感謝すると、お互ひ気詰まりで仕方がない。子供が親に感謝するのも、親が死んでからだしな。オパールが死んでゐないだけ、早い方だよ。と、いふ訳で、感謝を形で表して貰ふとするか。
「あ、はい。ぢやあ、ワインボトル、一番高いやつ」
よし! …うーん、ちやんと教へた事が身になつてゐる、といふ感じだなァ。いやー、タカハシくんは素直なんで洗脳…ぢやなくて啓蒙がしやすくて良かつたよ。間違つても「啓蒙の弁証法」とか読みさうにないしな。
「ほんと、もし1年半前にここに来てゐなかつたら、今でも昔の勘違ひしたままで調子に乗つてゐただらうと思ふと、恐いです。」
うむ。もしタカハシくんがここに来てゐなかつたら、今日までの1年半、ずつと調子に乗り続けて、他の店でお金を使ひまくつてゐただらうと思ふと、それだけは絶対に許せんな。だからこそ、我々は全力を使つてタカハシくんを教育したんだ。まァ、要点は批判精神だよ、タカハシくん! 自分が無自覚に良い・正しいと思つてきたものを、一度ちやんと疑つてみること。世の中は嘘や欺瞞、間違ひやペテンに満ちてゐるんだから。なんにせよ、タカハシくんがオパールに来るやうになつて、それまでの自分の生活を一度疑つて、振り返つてみたのはとても良いことだよ。その批判精神が、オパールに向くやうになる前に東京に去つてしまふのは、さらに良いことだ。オパールに関しては、良い思ひ出だけを持つていくやうに。
「はい。…でも、ほんとオパールさんには滅多に来られなくなるんですよね。せめて一年に一度は帰つて来たいんですけど、休みがとれるかどうか…」
うむ。タカハシくん、前に「菊花の約(ちぎり)」といふ話をしたのを覚えてゐるか? 約束を果たすために、肉体的には無理だつたので、霊魂になつてまで約束の場所・時間にやつて来る男の話だ。上田秋成の「雨月物語」にある。で、ここはひとつ、「菊花の約」を結ばうぢやないか。一年に一度は必ずオパールに来ること。
「え? でも、もし仕事が休めなかつたら、どうするんですか?」
それは肉体が無理なら霊魂を飛ばす。て、いふか、オパールで飲み食ひしたつもりで、その分のお金を送つてくれればいいよ。それで、タカハシくんの「オパールに絶対に行きたい!」といふ心は伝はる。肉体は無理でもね。
「はァ、でも、それッて…」
あ! 批判精神が…
思つたより、タカハシくんの成長は早いやうです。
小川顕太郎 Original: 2005-Feb-9;