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 Diary 2004・9月26日(Sun.)

グラマー氏のカンヅメ

 ギャラリー画床(ゆか)にて、グラス・マーケッツによる密室朗読ライブ「グラマー氏のカンヅメ」を観る。これは、一種の朗読劇である。出演者は 6 人、それぞれが台本のやうなものを持ち、それを朗読することによつて劇が進む。もちろん、役柄は固定してゐる。だから、通常の劇の、セリフ部分が朗読になつた、と基本的には思つてよいであらう。ただし、出演者全員が朗読、といふスタイルをとるため、身体の動きそのものがかなり抑制される、といふ傾向はある。いや、ほとんどアクションがなくてもあまり不自然でないやうに出来てゐる、といつた方がよいか。これによつて、現代劇に特有の芝居臭さが消える。と言つても、私は現代劇に疎いのでイメージと偏見に基づいて喋つてゐるのだが、あの現代劇に特有のわざとらしい喋り、オーバーアクションなどが私は嫌いなのだ。それ故に現代劇にはほとんどタッチしてゐない、と言つても過言ではないのだが、この「わざとらしい喋りとオーバーアクション」がないだけでも、私には随分と馴染みやすかつた。もしかしたら、グラス・マーケッツの人たちも、この「わざとらしい喋りとオーバーアクション」消すためにこのスタイルを考へたのではないか、と推測してみる。さうとすれば、これはなかなか卓抜なアイデアだな、と感心した。

 さて舞台の方は、イギリス北部に位置するとされる架空の円形の街、トーン・チェスターにあるホテル内で起こつた四日間の事件を描く。かなり知的に構成された脚本で、朗読といふ「情」を抑制したやり方と云ひ、様式化された動きと云ひ、「スタイル」といふものに対する偏愛を感じる舞台だ。私ももともとスタイリスティックなものは好きな方だから、かういふのはよく分かるし共感もできる。が、歳と共に(?)、スタイリスティックなだけでは満足できなくなつてきた故、多少物足りなさを感じたのも事実である。私個人の好みを言へば、スタイルがそのまま倫理と直結してゐるものがいい。が、これもあくまで私の好みの問題であり、世の中には純粋にスタイルを追求することに夢中な人たちも少数ながらゐて、浮き世離れした純粋知的遊戯に身をやつす。さういふのも悪くはないだらう。そこから、倫理が生まれるかもしれない。なんにせよ、オスカー・ワイルドによれば「人生の第一の義務は人工的になること」なので、この義務を果たすべく頑張つてゐるグラス・マーケッツの人たちには、エールを送りたいと思ひます。

 夜は静かだつたな。

小川顕太郎 Original: 2004-Sep-28;