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 Diary 2004・6月8日(MON.)

慣用読み

「慣用読み」といふのがある。本当は間違つた読み方なのだけれど、あまりに多くの人々が間違つてゐるもんで、まァ、その読み方も良しとしよう、となつたものだ。例へば、捏造を「ネツゾウ」と読んだり、消耗を「ショウモウ」と読んだり、「情緒」を「ジョウチョ」と読んだり、「憧憬」を「ドウケイ」と読んだりする類だ。これらは勿論、「デツゾウ」「ショウコウ」「ジョウショ」「ショウケイ」が正しい読み方である。私はこの「慣用読み」といふ奴がどうにも気にくはなくて、とは言ふものの私自身無知蒙昧の輩なのでたくさん慣用読みをやらかしてゐるだらうが、自分が分かつてゐる範囲では絶対に「慣用読み」はしたくない、と思つてゐる。「慣用読み」とは言ふものの、実質は「間違ひ読み」な訳だから、正しく読む方がいいに決まつてゐる。もうみんながさう読んでゐるのだから、別にそんな事に拘らなくてもいいやん、と言ふ人が必ずゐるのだが、さういふ考へはどうかと思ふ。世の中、なんでも多数決で決まる訳ではないのだ。決して多数決で決めてはいけない事も、ある。だいたい、今はマスメディアの発達しまくつた時代なので、間違ひが簡単に広がり、定着する。「慣用読み」と言ふ名の「間違ひ読み」も、テレビの出現でかなり増えたのではないだらうか。

 で、そんな私が不思議に思ひ、且つ憤つてゐる事に、本を読んでゐると、しばしば「慣用読み」のルビが漢字に振つてある事だ。なぜわざわざ「慣用読み」のルビを振るのか。もしルビを振るのなら、正しい読みを振るべきだし、間違つた読みを振るぐらゐなら、何も書かなければよいのだ。これでは、どんどん間違ひは広がり、定着していくではないか。なぜこんな日本語を破壊するやうな事をするのであらうか。ヒジョーに謎である。

 ところで、私自身、かうやつて毎日横書きで日記を綴つてゐる訳だが、このやうに横書きで日本語を綴ることじたい、日本語を破壊する行為だ、といふ意見がある。最近では石川九楊が、横書きで書かれたものなど日本語ではない、と過激な論を各所で吐いてゐるが、その昔、向田邦子も縦書きを守ろうと、「縦の会」といふのを作つてゐたはずだ。私もこの意見には全く賛成である。賛成なのに、なぜ横書きを続けてゐるのかと言ふと、人間、なかなか自分の信念を貫くことは難しい、といふ事だ。…ッて、自分で書いてゐて情けなくなつてきた。トホホ。

 日本語を守るため、と称して、この日記を書くの止めようかしら。

小川顕太郎 Original: 2004-Jun-10;